第620話 リビドーと向き合って

「そろそろ駅だけど、こっからどうやって行くんだ?」

「あ、次右です」

「ん」


 色々頭が回らなくて時刻はちょっと分からないけれど、街明かりに照らされる道のりをバイクで駆けることたぶん20分ちょい、俺の視界に見慣れたエリアが現れてきた。

 東中野から高円寺までやってくる間にもう棘のある攻撃はなくなったが、細かい道案内を尋ねるレッピーの声は優しくない。

 だって、ほら、俺の状態はずっと変わってないんだから。

 ぐいぐい、というわけではないけれど、満員電車で隣の人の肩が自分の肩にずっと当たっているような、そんな感じが続いている。俺がそう思うんだから、レッピーにとってもきっとそうだろう。

 そんなかなり気まずい送迎中——

 

「あー……なんだ、その、あれか? お前、溜まってんのか?」


 ある意味この信じられない状況に慣れたからなのか、うちまで歩いてあと10分くらいってところの赤信号で止まった時に、レッピーから聞きづらそうな声での質問がやってきた。


「え? いや、そんなことない、はずだけど……」


 普段だったら答えたりしないその問いだが、今この質問をさせたのは俺のせいだから、俺はその問いに羞恥心に耐えながら答えたのだが——


「ちげーのかよ。意味わからんし。なおやべーなっ」

「え、あ、いや——」

「え、てか……馬鹿なこと聞くけど、それちゃんと収まるんだよな……?」

「あ、当たり前だろっっっ」


 驚く反応を見せてきた後、レッピーから「そんな馬鹿な」な質問で追撃され、俺は全力でレッピーにツッコんだ。

 いや、ツッコんだってあれね? 当然普通のツッコミね? アレをアレしたとか、そんな話なわけはないからね?

 というか収まらないとか、そんな◯倫なわけあるまいて!!

 

「じゃああれか。アタシが魅力的過ぎたってことかー。悪いね、罪作りな女で」


 そして思いっきりツッコミを入れた俺に、なんだかいつもの調子のレッピーが現れる。

 当然その発言に魅力の有無は置いといても「何言ってんだバーカ」って感じだったんだけど……ちょっと冷静に考えた。

 ここで今俺が否定するような発言をしたら「じゃあ今の現象をどう説明するんだ?」と返されるのではないか? そうなると俺は何と返す?

 そんな考えが浮かんで俺は返事に窮したのだが——


「いやツッコめよバカっ。マジみたいで恥ずいだろっ」

「えっ、あっ、いや——」


 何故か逆にレッピーが照れた感じの様子を見せてきて、俺はそれに慌ててしまう。

 この気まずさに対する明らかなレッピーの気遣いだったのに、それを受け取り損ねた。

 そんな焦りを覚えた俺に——


「つかさ、そこで焦るとか童貞かよお前」

「ちっ、ちげぇしっ」

「童貞の筆下ろしとか絶対やんねーからなアタシ」

「だからちげーっつってんだろっ」


 呆れるような口調に変化したレッピーの連撃がやってきて、俺はバイクの後ろで彼女にしがみついたままブンブン首を振って否定する。

 そんな風にレッピーのしょうもない言葉気遣いに首を振っていたのに。


「……は? え、まだでかくなるの——? ——いや、おい! 興奮すんなバカ!!」

「う、うるせえっ!!」


 なんでこんなに脳と身体は連動しないんだと自分でも信じられないのだが、今のやりとりにより自分の下腹部のアレがスラックスの中で反応しやがった。

 いや、脳と連動していないわけではない。

 静の連動はなくとも、動の連動はしているのだ。

 だって今、俺は明らかにレッピーの言った筆なんちゃらって言葉から色々少し想像してしまったのだから。

 なぜこんなことを考えてしまうのか?

 え……まさか俺……溜まってんのか? たしかに昨日は使ってない。でも土曜日は出番あったじゃん? 普段も数日使わないとかよくあるじゃん? だとしたら、何故——


 そしてこの状況に俺は一人強度の強い混乱デバフに陥った、のだが——


「いや……お前がフリーなら別に手伝ってやってもよかったけど、お前の立場としてアタシ相手にそれは駄目だろマジで」

「な——」


 青信号で出発し、次の信号でまた止まった時、レッピーとしては俺を戒めるために言ったんだろうけど、レッピーが今の俺にとっては完全にアウトヒットな「手伝ってやってもいい」的な言葉を言ってきて、そのせいでさらにアレな想像が浮かんできてしまい——


「……お前、そんなにアタシとシたいのかよ?」


 頭では絶対ダメだと分かっているのに、今言われた言葉や、昨日言われたもしレッピーと先に出会っていたらって言葉なんかが思い出され、俺はさらに己の己をいきり立たせながら、口を開いたまま硬直した。


 そんなにシたいのか。

 その問を頭の中で反芻する。

 

 俺はどうしたいのか?

 いや、俺にはだいが——

 いやでもこいつ可愛いし割と好き——

 いやいや俺には——

 いやでも本能に従うなら——

 

 そんな天使理性悪魔本能が対立し、脳と下半身が主張し合う。

 

 でも俺の理性ってここまでずっと頑張ってきたじゃん?

 それにレッピーは付き合いも長いし、リアルで会ったのは昨日だけど、だいぶ昔から互いの気心は知れている。

 そして昨日の話からも、レッピーも俺のことを悪いとは思っていないというか、仲の良い男女とは思ってくれてるだろう。

 それにレッピーならだいのことも思ってくれてる以上、何かあっても墓まで持ってってくれるに違いない。

 ならば——


 いやいやいや!!

 一回でも裏切った事実は一生消えない。

 だいの笑顔を考えろ。だいの悲しむ顔を想像しろ。

 こんな分かりきった結末になることに手を出していけないんだよ。

 しかもレッピーにまで業を背負わせることにもなってしまう。

 俺が今手にしている幸せを失っていいのか? いや、いいわけがない。

 ここまで頑張ってきた理性なんだから、戦う力は十分だ。だからこれからも頑張れる。だからここは断固としてNOを突きつけろ。

 大丈夫、たぶん、大丈夫。

 だから——


 レッピーの問いかけに対して長々と変わらない下腹部のまま無言で思案する俺は、いつの間にかバイクが道のりの途中、うちまであとちょっとってところで停車していたことも気づいていなかった。

 でもじっとこちらを見てくる視線に、前を向いているはずの視線がこちらに向いていることに気がついた。


 そしてそれに気づいて、考えた。

 今わざわざレッピーは俺に「そんなにシたいのか?」と聞いていた。

 何気なく冗談っほく聞くでもなく、ちゃんとバイクを止めて俺と言葉を交わすためにバイクを停車して、だ。

 それってつまり、俺の答えに期待してるってことなのでは?

 それは、つまり——


 そんな考えに至り、至ってしまい、俺は長い迷いの末に——


「レ、レッピーはさ、その……俺としてもいいのか?」


 僅かに声を震えさせながら、質問に質問を返す形で答えていた。

 その瞬間、停車したバイクの上で半身を捻り、さっきからずっと何とも言えない表情を見せていたレッピーの目が一瞬だけ大きく見開いた直後、すぐにその顔が俯いて、俺の視界から彼女の顔が消える。

 そして——


「んあっ!?」


 突然ガッと顎に衝撃を受け、同時に両頬を圧迫される痛みが俺に襲いかかって——


「クズ」


 完全に死角から繰り出されたノールックの一撃の後、ゆっくり顔を上げてきたレッピーは、何と表現すればいいのか分からない表情を浮かべ、俺の瞳を真っ直ぐに覗き込みながら一言こう告げた。

 両頬に加えられる指先による圧迫はその力を弱めることなく続けられ、じわじわと痛みを増していく。

 だが俺はその瞳から目を離すこともその手をどかすことも出来なくて、レッピーが与えてくる痛みの意味の前に沈黙した。


「お前思ってたよりずっとクズだったんだな」


 そしてまた、繰り返すように同じことを告げられる。

 その言葉に俺は自分の発言の愚かさにハッとしたのだが——


「てめーで断んねーでアタシに拒否らせて自分の本能誤魔化そうとしてんだろ? アタシに断られたなら仕方ない。そう持ってきたいってこったろ? つまりお前の本能はヤりたいってことじゃんな?」

「え、いや——」


 指先に込める力を落とすことなく、少し口早にレッピーが俺の心の内を想像してきて、俺は反射的に否定の言葉を言おうとしたのだが——


「バカでかいのずっと押し付けられて色々思ってたのに、その上でそんな感じで言われたらさ、昨日色々言ったけどさ、流石にアタシもちょっと思うとこはあんだよな」

「え——?」

「だからお前の手には乗ってやんねー。いいか? これはお前から誘ってきたんだからな?」


 俺が何か口を挟む余地なく、レッピーはジッとこちらを見据えたまま俺の顔を掴んだ手に力を入れて、グイッと俺の顔を引き寄せて——


「——!?!?」


 バイクに跨るその身を捻らせたまま、引き寄せた俺の顔に複雑そうな感情を見せる可愛らしい顔を近づけてきて——俺と彼女の距離がゼロとなる。

 触れた場所に感じたのは、冷たくも柔らかな感触で、俺は驚きに何度も自分の目をパチパチさせたのだが——


「じゃ、お前んち行って続きといこうぜ。ほら、お前んちどこか早く教えろよ」


 5,6秒のゼロ距離の後、俺の顔から手を離したレッピーは別段変わらぬ普通の様子で身体の向きを正面に戻し、サイドスタンドを蹴り上げて、再び俺たちを乗せた金属を駆動させた。

 そして時折俺に道を聞きながら、残り僅かな道のりを駆けて行く。

 この間俺は、まともに頭を働かせることが出来ないまま、まばらな通行人を追い抜きながらレッピーに連れられるままに、我が家に向かうのだった。

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