第418話 誰
「ああ! そう言えば寝てる間になんかに刺されたのか、今朝からなんか赤くなっててさ! 場所が場所だけに目立ちそうだから隠れるようにしてたんだけど、心配ありがとな。でも大丈夫だから、気にすんな!」
ニカッと、そんな効果音まで付いてきそうな笑顔で目の前の女子高生に嘘をつく。
「ううん! 絆創膏ならあるから、必要なら言ってねっ」
「おう、さんきゅ!」
そんな俺の嘘を聞いて、「ありがとう」を言われたのが嬉しかったのだろう。爽やかな笑顔を見せる市原に、さすがに胸が痛む思いがないわけではない。
でも、これが最も平和的な解決の仕方。
そう自分に言い聞かせる。
俺と市原の会話が聞こえているであろう、先に俺の首についている物の正体に勘付いていた1年3人も割って入ってこないし、きっと俺同様の合理的判断を下してくれたものと信じたい。
「まだ蚊とかも飛んでるもんねー」
「そうだな。そらも気をつけろよ?」
「うん! 気をつける!」
嗚呼、素晴らしきかな阿呆の子よ。
何と言うかもう、見事なまでに騙されてくれた。
とりあえずこれでこの問題は片付いた。それでは攻撃に集中しよう、そう思ったのと、プレイのコールが聞こえたのと——
「あれ? 里見先生、どうしたの?」
この質問は、ほぼ同時だった。
その質問の先に立つのは「どうしたの」、そう口にした美少女とは系統の異なる美女で——俯き加減になりながら、わずかに肩を震せて、耳が真っ赤になっている。
その様子を見て、俺の思考能力が侃侃諤諤。
同時に湧き起こる、詰みの感覚。
「里見先生?」
心配を浮かべる市原に、だいは下を向いたまま——
「私じゃないわよ!!!?」
私じゃないの!?!?!?
俺の度肝を抜く発言が飛び出して、1000%テンパって混乱しているであろう、感情溢れるだいの声に一斉にみんなが視線を向ける。
何のこっちゃか分からない者、分かっているが故に困惑する者、既に察していたために笑いを堪える者、生徒の様子は様々だった。
そんな彼女の言葉に、俺は額に手を当て天を仰ぐ。
俺から言わせてもらえるのなら、こう伝えたい。
聞いてねぇよ!!! と。
なんで今お前がテンパってんだよ!!
ちゃんと話聞いとけよ!!!
「え? さ、里見先生、どうしたの?」
そんなだいの様子に質問者である市原はポカン顔。
すまん柴田、試合中なのに今誰もお前を見てないかもしれん。
「市原先輩」
カオスとなったベンチの中で、スッと前に出てきたのは三宅さんだった。
彼女といえば、寡黙。
その印象が一番強いのだが——
「え、麗香ちゃんどしたの?」
混乱する中に話しかけられて、市原は俺、だい、三宅さんと視線を彷徨わせる。
だが後輩を無視するわけにもいかないのだろう、結局は名前を呼んできた後輩に目を向けたわけだが——
「北条先生のそれ、虫刺されじゃないと思いますけど」
「え?」
すっと俺の首を指差し、淡々とした口調で告げた言葉は、核爆弾。
辺りを焦土にしかねないその発言に、俺は額に当てた手を目元へと移した。
ああ、雨の冷たさなんかもう何にも感じないぜ……!!
「れ、麗香っ! それはしーっだよっ」
「どうして?」
「気づいてないふりしてあげるのが、そら先輩への優しさだよっ」
「意味が分からないのだけれど……」
そして核爆弾を投下した三宅さんへ、慌てたように石丸さんが唇に人差し指を当てて黙るように促し、萩原がその理由を説明した、のだと思う。
なんで思うかったら、そりゃね、俺は今視界を閉ざしているからね……!
「え、えっと、うーんと、ど、どういうこと……?」
そんな子どもたちの会話の流れを、理解できていないような市原の声に、俺は半ば現実逃避するように手を下ろし、打席の柴田へ視線を変えた。
するとちょうど柴田が前進気味だったサードの横を抜くレフト前ヒットが放たれ、幸先良く先頭バッターが出塁する。
ベンチの空気は変な感じだが、やるべきことはやらねばならぬ。
一塁ベース上の柴田と打席に入った木本へ、いつも通り、のサインを出す。
ああ、全て無視してこっちだけ見てたいのに……!
でも、はぁ。
さて……。
「あれ、キスマークですよね」
サインを出し終わった直後聞こえてきたのは、どストレートに導火線に火を付ける言葉だった。
「え? 違うよ麗香ちゃんっ。キスマークってほら、口紅を塗った唇を当てたやつのことでしょ? 倫ちゃんのは虫刺されみたいなのだし、全然違うでしょ?」
だが、純真純粋な乙女である市原は後輩の間違いを正すように、真っ直ぐな目で三宅さんへ指摘する。
でも残念。正しいのは三宅さんです。
……はぁ。
そんな二人のやりとりに、先ほどから変わらずだいは活動停止していめ、他のメンバーたちは苦笑いを浮かべている。
市原が間違いなく本音で言っているのが分かるからか、誰も指摘出来ないようだった。
一人を除いて。
「市原先輩、それもたしかにキスマークですが、北条先生についてるのもなんですよ」
「え?」
「ほら、こうやって——」
臆することなく説明を続ける三宅さんが、アンダーシャツの袖を捲って肌を見せ、あまり日焼けしていない肌に口を当てて見せ——
「こうです。ちょっと薄いですけど」
少し赤くなった肌を市原に見せつける三宅さんに、ふざけた様子はない。
彼女としては俺が嘘をついたから、それを正す。そんな正義感すら見えてくるような、何とも堂々とした振る舞いだった。
その後をまじまじと見つめた市原が、俺の首と三宅さんの腕を交互に見る。
いや、今試合中なんだけど、ほんと、俺ら何やってんだろうな……!!
「……つまり、倫ちゃんの首のは、吸われた跡、ってこと?」
だがこの修羅場は終わらない。
いや、むしろ始まったと言っても過言ではない。
さすがに実演までしてもらえば勘違いも起きないということだろう、真実に気づいた市原が、珍しく低めのトーンで、三宅さんに確認を取ると、三宅さんは小さく頷いた。
そして市原が、少し考えるように下を向き、呟く。
「……じゃない……って……た」
ん?
今なんて言ったんだ?
市原の呟きはよく聞き取れなかったのだが、バッと顔をあげた市原の目が、真っ直ぐに俺を捉えて——
「誰!?」
「はい!?」
誰って、俺のこと!?
え、そんなに記憶飛ぶほどの衝撃が……!?
なんて、俺もだいぶわけ分からないことを思ってしまったが——
「里見先生、私じゃないって言ってた! じゃあ、誰!?」
「はいっ!?」
あの馬鹿余計な勘違いを生んだじゃねぇか!!!!!
若干涙目になっているような気がしなくもない勘違い少女の目が、キッと俺を睨みつけているのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます