第397話 読めない感情

 玄関を出て階段を降り、しんと静まり返る夜の街を進む。

 レイさんに言われた言葉を思い出し、進行方向は阿佐ヶ谷方面、つまりはだいの家の方。

 夜道を照らす月明かりは静かに世界を照らしていて、時折聞こえる虫たちの音色が秋の声を聴かせてくる。

 こんな時間に外を歩く人の姿は全く見えず、ほんと世界から隔絶されたような気持ちになるのは、何故だろうか。


 なんか、ちょっと緊張してきたな……。

 脳内に浮かべるのは、これから会う予定の人の姿。

 よく考えたらさ、〈Rei〉さんって、うみさんなわけじゃん?

 あのめちゃくちゃ綺麗で可愛い女性じゃん? あ、いやもちろんだいが俺の中ではナンバーワンに美人で可愛いですよ?

 でもなんというかさ、あるじゃん? 好みってやつ。

 恋愛感情とは別にさ、うみさんの顔、正直めちゃくちゃタイプだったんだよな……初めて会った時のゆめも好みのタイプで可愛いなって思ったけど、うみさんは無意識に目を奪われるというか、そんな感じがあったんだよなぁ。

 そんな人に、これから会うわけだろ?

 もちろんLAのフレンドとはいえ、話す内容は仕事絡みだし、生徒の家族だから、こんな感情一切出すわけはないけれど、ううむ、やはりちょっと、男として緊張する。


 そんなことを思いながら歩くこと2,3分、コツコツという音と共に、反対側からこちらに向かって歩いてくる人影が見えてきた。

 次第にその姿が、月明かりと街灯に照らされ、判別されていく。

 白色の服を着た、明るい髪色の人だ。

 そして一歩、また一歩と近付いていき——


「もー、夜道に黒い服じゃ分かりづらいですよー。ちょっと怖かったじゃないですかー」

「あ、なんかすみません」

「あはは、冗談ですー。えと、改めましてこんばんは。急に呼び出しちゃって、ごめんなさい」

「あ、いえいえ」


 「ごめんなさい」、そう言って白い服の彼女が、ぺこっと一礼。

 やっぱ可愛いな……!


「無事会えてよかったですー」


 お互いの顔がはっきり見える距離まで近付いてて改めて実感する、その可愛いらしさ。さらに一礼を終えて顔を上げた後、彼女はその綺麗な顔に穏やかな笑みを浮かべて、「会えてよかった」と言いながら、小さく俺に手を振った。

 なんかもう、一々が可愛いとしか思えない存在と普通に話せた俺を褒めて欲しい。

 彼女が生徒市原の家族って意識を忘れてたら、危なかったね!

 でも確かに彼女の言う通り、上下黒のジャージは夜道だと分かりづらかったな。

 失敬失敬。


「それで、お話についてなんですけどー」

「はい」


 そして軽い挨拶を終えた直後、うみさんが上目遣い気味に俺の目を見ながら、いきなり本題に入ろうとする。

 そんな仕草に俺はちょっとドキドキしつつ、その言葉に備えたのだが。


「ここだとモロに路上で、お話もしづらいですから、やっぱり倫ちゃんのお家の階段下に行ってもいいですか?」

「え?」

「あ、お家にあげろなんて言いませんから。里見先生も待たせてるわけですし、そんなに長くはなりませんからー」

「え、でもそうなると、うみさん帰り道一人で戻ることになりますし……」

「あら優しー。でも、私もうすぐ27歳のアラサーですから、そんな女の子扱いしてもらわなくても大丈夫ですよー。それに、私んちここから3分くらいのとこですしー」

「は、はぁ」

「何より、同居の子もコンビニ行ったりすることがあるんですけも、同居の子にちょっと出てくるって言った手前……うちの前で鉢合わせるのはちょっとやなんですよねー。面倒な勘違いされそうなんで」

「あ、なるほど……」


 切り出されたのは、話す場所を変えたいという旨の発言だった。

 しかしうみさん、LAだとゼロさんなのに、リアルだとナチュラルに倫ちゃん呼びなんだな……たしかに〈Rei〉さんとは割とよく話すようなったから、距離感はちょっと近付いたとは思うけど。

 と、それは置いといて、たしかにこんな道の只中というか、他の人の家の前で話すのも変な話だから、どっか移動した方がいいとは俺も思う。

 俺の希望としてはうみさんちの方で彼女がすぐ帰れる場所なんだけど、同居人の方に見られたら面倒ってのは、たしかに想像つくから、しょうがない、うちの方で話して、夜道は送ってくしかないか……って、あれ?


「っていうか、今気付いたすけど、なんでうちの場所知ってるんですか!?」


 そうじゃん! そこ謎じゃん!

 リアルで会ったことも、話したこともあったけど、うちの場所知ってるかどうかは別な話じゃんね!

 うわ、なんでLA内で言われた時に思わなかったんだ俺!?


 と、いまさらなことにハッと気づき、俺はその慌てっぷりを表情に出してしまったのだが——


「しーっ、ですよ? 夜中ですからねー」

「っ!?」


 唇に訪れた、優しい圧迫感。

 それと同時に穏やかに微笑えむ彼女の顔が、一瞬前より近づいている。

 そう、俺の口を塞ぐように、うみさんがピンと立てた人差し指を、俺の唇に当てたのだ。

 

 その最初のボディタッチとしてはスーパーハイレベル過ぎるボディタッチに、俺は焦りに焦って彼女の目論見通り何も言えなくなり、そして何とかすぐさま一歩下がってその指から離れ、唇を自由にした。


「あ、照れてますー?」


 自由にした、のに。

 さも俺の反応が楽しくてしょうがないように、穏やかだった笑みをちょっと悪戯めいたものに変えて、追撃を放つかのようにずいっと俺の顔を覗き込むように、うみさんが近付いてくる。

 もし俺が反撃に転じて少しだけ顔を前に出せば、自由になった唇が相手に触れることだって出来てしまう、それぐらいの近さ。

 だが、月明かりと街灯にせいか青白く見える彼女の肌は文字通り幻想的で、笑ったせいで細くなっている眼差しの奥に控える瞳は、吸い込まれそうに美しく……俺が何かするなんか、出来るはずもなく。


「いや、ちょっ——」

「あはっ。もう、倫ちゃんはからかいがいがありますねー」


 そんな彼女の前に、俺はもう自分でもはっきりと自覚するほどに照れ、昼間だったら耳まで赤くなってるのがバレてしまったところだったのだが……そんな俺を面白がるように楽しそうに笑いながら、うみさんは一歩下がって、後ろで手を組みながら、ニコッと笑い——


「倫ちゃんのことが好きになっちゃったから、後をつけたんですよー」


 と、一言。


 そうか、そうか、俺のことが好きになったからかー、なるほどー。

 好きになったらね、しょうがないよねー。

 うん、うん。

 だよねー。


 ……え?


 ……え?


「……へ?」


 そんな彼女の説明に対し、俺から出てきたのは、何とも間の抜けた声というか、音だけだった。

 ぎこちなく視力に仕事をさせれば、ニコニコと笑顔を浮かべるうみさんの唇は、これ以上の説明はいらないよね? とでも言いたげに、楽しそうに口角を上げたまま閉じられている。

 だが、どんなに冷静に分析しようとしても、告げられた言葉は一体全体もう意味が分かんなくて、俺の胸にさっきまでとは違うドキドキがやってきた。


 こんなに違う意味で刺さる「好き」って、他にある!?


 好きになっちゃった? いや、百歩譲ってこれは認めよう。

 だから、後をつけた? いやいやいやいや! これはダメだろ!? 

 え、え……ええ!?


 と、もう頭の中はHPバーが真っ赤に染まった狂乱状態のボスモンスターを複数体相手取るレベルで右往左往である。

 だが。


「あははっ。いやぁ、ほんと面白いなぁ、倫ちゃんはー」

「え? あ、あのー……?」


 そんな俺に、うみさんは楽しそうに笑う。

 年齢よりもずっと幼く見える屈託ない笑顔で笑う。

 その姿は、変わらず可愛い。

 だが、そんなニコニコ笑顔のうみさんに対し、俺は今どんな表情をしているのだろうか?

 間違いなく上手く笑えていないことだけは分かるのだが……。


「倫理の先生なら、心理学も少しはかじってるんですよね? なら、私の言ってることが真実かどうか、分かるんじゃないですかー?」

「いやいや、倫理はそんな万能な教科じゃないですって!」

「あっ、もう、しーっ、ですよ?」


 彼女の無茶振りに俺はまたしても少し大きな声を出してしまったので、うみさんが今度は自身の唇の前に指を立てて、しーっ、とポーズを取ってくる。

 そんな彼女に、俺はまた静かにしてみせることで応えてみせるが、しかし。

 ここでふっと、俺の中の冷静モードが発現した。

 そうだ、この人めちゃくちゃ可愛いし、楽しそうに笑うけど、でも——


 ニコニコ笑顔で色々言ってくるけど、その言葉のどこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、全く分からないのだ。


 見た目は市原と似ているのに、あの嘘なんか全く付けませんってタイプの妹と違って、うみさんの表情からはそれが読み取れない。

 ただただ可愛いとしか思うことが出来ないのだ。

 別に瞳に感情がないわけではない。

 ただ純粋に楽しそうというのは分かる。

 だが、それ以上が、分からない。


 そんな彼女にたぶん俺は、怯んだんだと思う。


「ま、そこら辺のお話もこの後のお話と重なりますので、とりあえず移動しちゃいましょー?」

「え、あ……はい……」


 そしてそんな俺の様子を察したのかもしれない彼女は、まるで俺を強制的に動かすように、俺の向きをくるっと回転させてから、背中を押して歩き出させる。

 その有無を言わさぬ振る舞いに、俺は為されるがままに自宅の方角へと歩き出すわけだが……この後の俺は、どんな話を聞かされるのだろうか?

 LAの中ではだいを待たせてるのもあるから、そんなに時間をかけるわけにもいかないのに。


 ううむ……。


 そらの広さは限りなく、全てをオープンにしてくれているようなのに、うみはなんと深く、先を見せないのだろう。


 一抹の不安が、積もり積もって山となる。

 そんな気持ちに駆られながら、俺はうみさんと並んで、夜の杉並区を歩くのだった。

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