第582話 そしてつまり理解を超える

「ご、ごめんなさいっす!!」

「気にすんなって」


 申し訳なさそうに響く声。

 その声に、俺は咄嗟に取った行動の姿勢のまま、顔だけ下に向けた笑ってやった。

 何で下向いたかって?

 だってその声の主は床に倒れちまってるから。そいつは焦った顔で、こちらを見上げていた。

 

「そっちこそ怪我ないか?」

「だ、大丈夫っす」

「ならよかったさ。でも気をつけろよ? 当たったら、けっこう痛いだろうしさ」

「は、はい……ごめんなさいっす」


 床に倒れているのは転んだから。

 そして転べば痛い。

 だから俺は転んでしまったロキロキの謝罪に対しむしろ心配し返してから、そちらに歩み寄って手を差し出して立たせてやった。


「あ、ありがとうっす」

「おう」


 俺の手を取ったロキロキは何だか申し訳なさそうな顔をしてたけど、別に気にすることじゃないのにな。そもそも俺のために動いてくれたからなわけだし。


「わ、私もありがとうございました……」

「え? あ、いやいや。キャッチングはほら、部活柄慣れてますし。まぁそんなこと言ったら佐竹先生も取れたかもしれないっすけどね」


 そして俺がロキロキの手助けをしていると、後方から声が聞こえてきて、その声に対して振り返った俺は手に持った保冷剤を見せながら少し自虐的に笑ってみた。

 ロキロキが転んで、持ってきてくれたカチカチに凍った保冷剤がその手から飛び出して、当たったら痛そうなその物体が佐竹先生の顔の辺りに向かって一直線の軌道を辿った。それが見えたから、俺は咄嗟に佐竹先生の前に身を乗り出して、取れなかった場合に備えて壁となったわけだが、飛んできたコースがちょうどいい高さだったこともあり、俺は無事にそれをキャッチできた、それだけの話なのだ。

 そりゃさっきまでの理解不能な発言もあったし、なんだこいつとは思ってたけど、だからと言って目の前で怪我をするかもしれないところをただ見過ごすのは違うだろ?

 

「いやいや、ゼロさんナイスキャッチでしたし、カッコよかったっすっ」

「別に対したことしてねーって」


 だが自分のせいで友達に怪我をさせかけたロキロキの賞賛が大袈裟だったから、俺はまたそちらに向き直って笑ってやった。

 っといけない。

 こんなことしてないでだいの様子見見ないとな。


 そう思って俺は片手で自分のこぶを冷やしつつ、さっきまでやってただいの手当を再開しようと思ったのだが——


「わ、私もナイスキャッチだと思います……」

「え」


 ふっと感じた服を引っ張られる感覚。

 今俺の背中側にいた人物は、当然一人。だから引っ張ってきたであろう人物は、その人なはず。

 でも、その動作と伝えられた声があまりにも予想外過ぎて、俺は一瞬誰が言ってきたのか理解できなかった。

 だって今の声の感じって……。

 まるでギギギっと鳴りそうな錆びたブリキ人形の如きスピードで俺がゆっくりゆっくり振り返ると、そこには右手の親指と人差し指でそっと俺のTシャツの裾を摘む佐竹先生が。

 しかもその表情には少し紅が差し込んでいるような、どこか恥じらいの色が浮かんでいて——


「っ!?」


 振り返った俺に向けられた伏せ目がちな視線は、どこか熱っぽいような潤んだ瞳だった。

 そう、それはまるで魅了のバステを受けているような、そんな雰囲気で、ああバンパイア系のモンスターからチャーム魅了系魔法喰らったらこんな感じなりそうだなぁとか、そんな妄想まで浮かんでくる。

 ……って!


「はい!?」


 なんでやねん!?

 え、何この人!? どういうこと!?

 その表情とか、今の仕草とか、ちょっと高くなった声とか、それってアレだよね!? アレな反応の時のだよね!?


「え、や、やよ……?」


 そんな佐竹先生に、正面からこの姿を見せられているロキロキの戸惑う声がする。

 もちろん俺も戸惑いたい。

 いや何事よって戸惑いたい。

 ああ、これはあれだね。佐竹先生は魅了のバステで、俺は混乱のバステ状態。

 つまり俺らは今正常じゃないわけだ。

 うんうん、それならしょうがない……ってなるかい!!

 いや、あんたさっき自分は女の子が好きって言うとったやないかい!!

 え、何これ? こんな簡単にこの状態なることある!? 俺が何したって、当たり前のことしただけぞ!? こんなことで!?

 悪いけどゆきむらよりも激チョロ過ぎん!?


 先ほどから俺の服の裾を掴みっぱなしの佐竹先生に、俺の大混乱が止まらない。

 ……待てよ? 混乱なら攻撃を受ければ一定確率で回復する。つまり自分で自分を殴ればワンチャン!?

 ってアホか!!


「あ、あのー……?」


 脳内では激しいツッコミが嵐のように飛び交うが、現実ではそう簡単に声は出ない。出るのは冷や汗くらいである。

 だって意味が分からないんだから。

 ああそうだ。分からないって怖いんだよ。

 だってそれは人間の潜在的な本能なのだから……!!


「す、すみません……あ、あの、その……」


 そんな恐怖する俺に、ついさっきまで俺に対してこれでもかととんでもないことを言ってきていた女性が、おずおずと言った様子で言い淀む。

 いや、マジであんたさっきまでマシンガントークで俺からだいを奪いたい感じ出してたじゃんな!?


「さ、さっきまではごめんなさい、私北条先生にとても失礼なこと言ってしまいましたよね……」

「え、あ……は、はい。そう、ですね……?」


 だが、あまりにも別人レベルなこの変化に、俺の混乱は極致に至り、なぜか肯定する内容を疑問系で返してしまう始末である。

 そんな俺の反応に何を思ったか——


「ほんとにごめんなさいっ」


 バッと勢いよく佐竹先生が頭を下げてきて、俺はその動作に思わずビビった。

 しかも服は掴んだままだったから、めっちゃ引っ張られたしな!


「本当に失礼なことを言ってしまいました。本当にごめんなさい。でもあの、その、えっと……」


 そしてまた頭を上げた後、先程から変わらぬ潤んだ瞳で俺をじっと見つめ、また何事かを伝えるべく言い淀む。

 当然俺は、何も言えない。

 ロキロキも何も言えない。


 ただただ理解できない状況を前に、間違いなく硬直していた。

 そんな俺に——


「これからも仲良くしてくれると嬉しいですっ!!!」


 一世一代の告白をするかの如く大きな声でそう伝えてきた後、俺の服から手を離した佐竹先生が室内を飛び出して、そのまま玄関から外へと走って行ったわけである。

 その突然のアクションに、俺もロキロキも数秒思考が停止して、黙って佐竹先生の去って行った方角を見つめるばかり。


「……も?」


 そのまま十秒ほどを過ごしてから、俺は渾身の理解不能を、この音に込めて呟いた。

 今あの人、これから「も」って言ったよな。いや、なんだ「も」って。これからも何も、これまではどこにあったのよ?

 そんな疑問がそれこそ藻のように増殖する。

 そしてロキロキの方を向いて——


「どゆこと?」


 心から、そう、心の底からの疑問を尋ねたのだが——


「わ、分かんないっす……」


 俺同様ロキロキも全くもって意味が分からないご様子で、その顔は引き気味な戸惑いで溢れていた。

 俺より付き合いの長い友達だっつーロキロキでこれなら、俺には……うん。


 ……あの人、マジで、何者なんだ!?

 分からん、マジで分からん!

 というか正直さっきまでの方が対応しやすかったんですけど!?


 そんな混乱が浮かんでは増えてまとわりつき、俺はしばらく呆然としてしまうのだった。

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