第516話 ハロウィンシュガーナイトⅠ

 10月31日、土曜日、18時半過ぎ。

 俺はこの日を、待ちわびていた。


「おつかれさん」


 阿佐ヶ谷駅の改札を抜けて、黒のスカートに白のブラウスを合わせたシンプルな装いの黒髪美人が俺の前に向かってくる。その表情にはあまり感情が見えないが、疲れの色は見てとれた。そんな彼女が引っ張っていたキャリーケースを預かりながら、俺は一言、労をねぎらう声をかけた。

 その言葉を聞きながら、俺の前でこの一見ものすごくクールそうな美女は立ち止まり、少しだけ俺の顔をじっと見てきたあと、周りを気にすることもなくポスッと俺の胸に額を当てて——


「ただいま」


 と、小さな声で一言告げた。

 たったそれだけで、募る愛おしさが爆発しかけるが、「ただいま」、そう言われたら、返す言葉は一つだろう。


「おかえり」

「やっと会えた」


 俺の胸に甘えてくる彼女の背中を空いた左手でぽんぽんしつつ、俺が優しく返した言葉に応える彼女の声には、分かりづらいけれどもご機嫌な様子が見えて、もし彼女に尻尾が生えているのなら、ピーンと伸ばしているのが想像できた。


「どうだった?」

「疲れたけど、楽しかったよ」


 そして、俺が尋ねた質問に、三泊四日に渡る大仕事を終えた彼女は、疲れを見せながらも顔を上げて答えてくれた。もちろん疲れのせいで楽しかったという風には見えないが、どことなくそれが嘘じゃないのは、伝わった。


「それは何よりだな」  


 そんな答えに俺が笑い返すと——


「うん。でも、何回も会いたくなって大変だった」


 今度は彼女が少し拗ねたような表情を見せ、何ともいじらしいことを言ってきた。

 いやぁ、危ねぇ。今ここが外じゃなかったら、間違いなく抱きしめてたね。

 ……いや、公共の場で彼氏の胸に頭を当てるのも、そんな彼女の背中をぽんぽんするのも、十分イチャついてるのはわかるけどね?


「今日明日はこっからずっと一緒だよ」

「うん。早くくっつきたい」


 いや、もうくっついてるだろ、なんてツッコミはノーサンキュー。

 そんなあまりにも可愛すぎる俺の彼女への愛しさを表に出し過ぎないように耐えながら、俺は頑張って働いてきた彼女に手を差し出して——


「改めて、おかえりだい」

「ん、ただいまゼロやん」


 すっかり暗くなった街を手を繋いで歩き、俺たちは一旦だいの家へと向かうのだった。







「でも、東京駅で反省会飲み会とかなかったのか?」

「あったけど、疲れたって言って帰ってきた」

「え、いいのか?」

「うん。引率中ずっといたんだもん。もういいよ」

「え、いや——」

「会いたかったし」

「……っ!」


 ああもう、なんて可愛いんだこいつはもう!


 だいの家に帰宅して、荷物を整理して、洗濯機が回るのを待つ間、俺はだいの家のベッドの上で、壁を背にしながら足を開いて座ってだいと話していた。

 その開いた足の間ではもちろんだいが俺に身を預けるように座っている。

 さらに俺はそんなだいを後ろから抱きしめる。

 つまり今だいは俺の腕の中。

 だいの髪の毛からは、なんだかいい匂いもやってくる。


 この状態と感情が相まって、俺はギュッと抱きしめる腕に少し力を込めた。

 普段より甘えるような幼い声で話すだいは、職場の飲み会を断って俺に会いたいから帰ってきたという。もちろん学年の先生たちとのコミュニケーションとか、修学旅行を担当した先生の慰労を思えば参加することも大事と思うけど、強制ではないもんな。

 会いたくて帰ってきた、か……いやぁ、可愛い、可愛すぎる。

 

「ちょっと痛い」

「あっ、ごめんっ」


 そんな感情の高まりのせいで無意識にどんどん力を強めてしまったのか、子どものような声で注意され、俺は慌てて手を緩める。

 しかしほんと、可愛いやつだなぁ。


 と、俺が幸せに浸っていると——


「亜衣菜さん、よかったね」

「ん、ああ。でも、あいつが頑張った結果だろ。俺たちも眠気に耐えながら頑張ったけど」

「うん。でも元気そうになってて本当よかった。亜衣菜さんのこと手伝ってあげてくれて、ありがとね」

「まさかのだいからのありがとうか」

「じゃあ、お疲れ様?」

「そっちのがしっくりくるかな」

「じゃあお疲れ様」


 ふと話題を変えただいに、俺は姿勢を変えずに答えていく。

 だが、亜衣菜の話をするだいの声は優しくて、本当に二人の仲が深まったのが伝わった。

 

「ホテルが大人は一人部屋だったからさ、亜衣菜さんから連絡きた日は、よかったねって電話しちゃった」

「ほうほう」

「三人で頑張ろうね、大会」

「おうよ」


 そして楽しそうな口調のまま、この前のあいつのお願いがだいにも伝えられたことが判明する。

 ちなみに亜衣菜は俺にお願いした翌日、無事に家に戻ることが出来た。

 山下さんとの話し合いは、まぁけっこう色々あったみたいだが、最終的には覚悟を決めた亜衣菜に山下さんが折れて、一応の和解はしたらしい。

 マネージャー兼カメラマンの契約も、変わらず続けることになったとのことで、俺としては本当にあいつが強くなったことに脱帽だ。

 あ、亜衣菜といえば、昨日——


「あ、そういえば、昨日はちゃんと亜衣菜さんから預かってくれた?」

「ん? そりゃもちろん。でも、流石に急に来られた時はビビったよ。っていうか、だいが渡すよう頼んだなら、俺にも一言連絡くれてもよかっただろって」

「ふふっ。ゼロやんへのサプライズと、亜衣菜さんへのお祝い代わり」


 そう、今だいが聞いてきたことでもあるが、昨夜の遅く、もうほぼ日が変わりかけた頃、亜衣菜がまた我が家にやってきたのだ。

 曰く「返し忘れてた鍵と借りたお金を返しにきた」、とのことだったが、鍵の件についてはだいの差し金だったらしい。

 しかもうちまで送ってもらったタクシーは片道のみで帰してしまい、既に終電を過ぎていていた亜衣菜がなぜかまたうちに泊まっていくというアクシデント付き。

 もちろんそれもだいの提案だったのは、亜衣菜に見せてもらった二人のやりとりで確認した。

 なんならだいから、望むのなら俺に添い寝してもらってもいいよ、との許可まであった。

 もちろんそれは亜衣菜も「いらないかなー」と笑ってたし、当然俺も断ったわけだが、亜衣菜へのお祝いというのは置いといて、俺へのサプライズという意味では大成功だったのは間違いない。


「でも亜衣菜へのお祝いて……そもそも俺はお前のものなんだけど?」


 サプライズは成功だったとしても、亜衣菜への貢物みたいにされたことにはちょっと不服だったので、俺はこの点について訴えてみたが——


「そうだよ。私のものだよ? だから私の好きにするんだもん」

「いや……その言い方はずるくないか?」


 見事に撃破されました。

 その可愛いわがままに、俺は正直反論する武器も見つからず——


「ずるくないよ? 事実だもん」


 結局だいの可愛さの前に、何も出来なくなるのだった。


「いや、ああもう……」

「私がいなくてゼロやんが寂しくなってたら可哀想じゃない?」

「いや、むしろあれは——」

「——やっぱり私じゃないとダメだった?」


 そこでだいが、身体を捻ってこちらを向き、俺の両肩を掴みながら両足を開いて伸ばして俺の足の上に乗せ、蠱惑的な笑みを見せながら、首をかしげたあと——


「当たりま——」


 尋ねてきたことへ答える俺をぐっと自身の方へ引き寄せて強制的に中断させ、同時に俺の思考も止めてきた。

 俺の視界が、超至近距離のだいの顔で埋まり、俺の口内への侵入も発生する。

 そんなことが起きては、いかに俺の理性が最強だとしても、最早抗う術はなし。

 そしてそのまま、お互いを求め合う音を部屋の中に響かせながら、だいが俺を引き寄せた力に任せるまま、俺がだいを押し倒すような体勢になっていく。

 微かに残った理性が、だいが重くないように、少しだけ身体を浮かそうとしてくれたが、俺の首に腕を回しただいに強い力でぐっと身体を引き寄せられ、結局俺はだいを押しつぶす。

 それでもまだしばらく、呼吸も忘れそうなほどにお互いを求め合う時が続き——


「……ん、私じゃないとダメって、知ってるよ?」


 しばらくの後、どちらからともなくそっと顔を離しお互いの表情が分かるくらいの距離を取ると、だいは口の周りを湿らせたまま、挑発的な笑みを浮かべて、俺を見上げながらそう言い放った。

 

 ああ、もう……。

 

「俺はお前のものだけど、お前も俺のものだって分からせてやる」


 本当は、二人で我が家に帰ってからのはずだったけど。

 今夜はハロウィン。仮装もしなきゃいけないし、これ以上悪戯されないためには、甘い時間もあげなくてはなるまいよ。

 だから俺は、何も衣装は変えないけれど、気持ちだけ狼男に仮装する。

 そして、洗濯機の仕事を終えた合図も耳に入らないほどに、数日ぶりに再会した挑発してくる愛しの子羊を相手に、今宵一回目の襲撃をしかけるのだった。

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