第402話 復活元気の子
10月9日、金曜日、午前8時35分、都立星見台高校、2年E組教室。
「おーっす」
「倫ちゃんおはよ〜」
「お、おはよ……」
「市原さん今日も元気ないね〜」
「え、そ、そんなことないよ!?」
「ま、そんな日もあるだろ」
市原ノ様子ニ変化ナシ。
連絡ヲ待ツ。
☆
同日、10時40分、2年E組、倫理の授業中。
「市原、ギリシャってどの辺りにあるんだっけ?」
「え、えと、分かりません……」
朝カラ変化ナシ。
知識ハイツモ通リ。
☆
同日、15時12分、2年E組、帰りのHR。
「じゃ、今週もおつかれーい。よい週末を!」
「きりーつ、きょーつけー、れー」
「「「さようならーーー」」」
変化、有リ。
と、何だかここまで戦時中の電報みたいな記録を脳内でつけたりしていたが、三度やってきた教室には明らかな変化があった。
だがそれをまだ顔には出さず、俺は今週1週間を過ごした生徒たちへ労いの言葉をかけた。
そんな、掃除担当の奴ら以外がバラバラと帰り出す、帰りの挨拶の直後。
予想外通り、奴は動いた。
「倫ちゃん倫ちゃん倫ちゃん倫ちゃん!! ついに私たちの大会の週末だね!!!」
「っおぉう!?」
それはもう溜めに溜めたパワーを全放出するような勢いで、バンっと机に両手をつけ、教卓前にいる俺に向かってぐいっと顔を寄せて、飛び切りの大声での名前連呼。
変化、有リと感じた通り、正直、教室に入った段階で奴のキラッキラした視線が俺をロックオンしているのには気がついた。
だからこそ、それなりの覚悟はしていたわけだが、そんな俺の予想を軽くぶち破る元気さと勢いに、俺は不覚にも一歩後退する形で驚いてしまったわけである。
チョークレールに背中が当たったから、絶対スーツに粉が付いたじゃんこれ。くそぅ……。
なんてことも思ったりはしたのだが。
「い、市原さん、どうしたの……?」
午前中とはまるで別人なその変化に、隣の席の十河も若干、というか、かなり引いた様子を見せていたが、当の本人はそんなことなどなんのその。
「私は私だよ! 市原そら! 元気でーすっ!!」
なんて、ザ・アホの子なことを言って、これ以上ないような笑顔を炸裂させていた。
その笑顔は昨日の夜中に見た笑顔を子どもっぽくしたような、まぁ、その、あれだ。
いい笑顔だった。
「分かりやすい奴だなお前」
復活した理由を知るからこそ、そんな笑顔炸裂元気モンスターに俺はやれやれとした感じで、教卓の上に置いていた出席簿を使って軽く頭をこづいてやる。
だが——
「え? 何のこと?」
まるで本当に俺の言っている言葉の意味が分からないような、そんな言葉と表情が返ってきて……俺の中で緊張がひた走る。
「え、まさかの無自覚だったの? さっきまでの無自覚だったとかありえるの!?」
「むむ? 私の倫ちゃんは相変わらず変わってるなー」
だが、本当に何も分かってなさそうな、いや、私は生まれてこの方ずっと変化なく私ですけど何か? みたいなテンションで言い返してくる市原に、俺は幾許かの戦慄を覚えた。
そして助けを請うように、隣に座る十河へ視線を送り、救いの手を求める。
「あー……倫ちゃん倫ちゃん。これは本物ですわ」
だが、同級生の目を持ってしても、その診断は俺と変わらない……!
「……マジかよ」
「全ての言動がメンタル直結で、裏も表もないっぽいね〜」
いやほんとこいつ、宇宙人か……それこそパターン青なのでは? なんて、若干昨日の夜の流れに引っ張られた考えが頭を過ぎる。
「えー、何なに!? 何の話!? 私も倫ちゃんと話したいっ」
しかし、俺がどんなに悩んでも、市原そらは変わらず市原そらなのだ。
それこそ、俺にはどうしようもない真理というものだろう。
ならば出来ることは一つ、諦めだ。
「いや、お前には一生分からない。でもま、お前から元気取ったら何も残らないからな。そのままでいたまえよ」
「え!? それはつまりずっと私といてくれるってこと!?」
「おぉー。溜め込んだ分、ポジディブ天然度マシマシですな〜。じゃあ今日ばかりは復活祝いに倫ちゃんは譲ってあげまーす。ってことで、大会頑張ってねっ。ばいば〜い」
そして理解を諦めた俺の発言に、斜め上どころか別次元の理解を見せた市原へ俺がドン引きしていると、これは面倒だと悟ったのか、十河が口早に喋りながら笑顔でさささっと帰り支度を終えて、流れるような動きで退室する。
「ありがと! またねっ」
そんな足早に出てった友達へ手を振る市原も、その姿が見えなくなれば、再度俺へとご機嫌な笑顔を見せてきて。
「大会、楽しみだねっ」
と、昨日まで感じさせた明日への不安など、微塵も感じさせない様子を見せてくれる。
そんなこいつへ俺は正直苦笑いレベルだったけど、ほんと、うみさんがいい仕事してくれたことを実感する。
……いや、そもそもうみさんが俺のこと尾けてきたりしなければ、こんなことにもならなかったわけだから、うみさんが自分で自分のケツを拭いたって話なんだけど、まぁこの辺は今は気にしないで、今の現状をよしとしよう。
彼女がどんな連絡を妹にしたのかちょっと気になるが、こいつにとって午前中までの様子の原因は俺に知られてないと思っているはずだから、ここで聞くのは余計だな。
「うむ。まず明日勝って、王者への挑戦権掴もうぜ」
「任せろっ! 頭ぽんぽんのために私は誰にも打たせないぜーっ」
「あー、そんな約束もあったっけか」
「え!? 忘れてるの!? ……あっ! じゃあ、やっぱり頭ぽんぽんじゃなくて、デートだったかもっ!」
「おい。つーか、じゃあって言ってる段階で今作られた内容じゃねーかっ」
「バレたっ」
そう言って、えへへ、と笑う市原さん。
ま、元気になったことを良しとして、その後もこんな感じで市原と話をしたんだけど、うん、これはもうすっかり復活だな。
どう伝えたのかは分からないが、さすが姉。妹のことはよく分かっている、ということか。
「うし! じゃあ、グラウンド行くか!」
「お? 倫ちゃん今日はすぐ来れるのっ!?」
「大会前日だぞ? 当たり前だろ」
「おおっ! じゃあ一緒に行こっ」
「おうよ」
そんなこんなで、メンタル面での明日への準備は整った。
これで月見ヶ丘の面々にも迷惑かけずに済むし、市原が本調子なら……おそらく負けはしないだろう。
悪いな佐竹先生。
そんなことを思いながら、俺は振り解いても何度も腕に抱きついて来ようとする市原を諦めずに振り解こうとしながら、放課後の部活指導を勤しむのだった。
☆
同日、19時48分、杉並区。
というか、足早に歩く、高円寺からうちまでの道中。
部活指導後、すぐに帰ろうと思った矢先、久川先生から生徒指導の相談を受け、島田先生と一緒になって話をすることとなり、結局学校を出たのは19時を過ぎてからのことになってしまったのだ。
もちろん若手育成は先輩の役割なので、全然話すことはやぶさかではない。が、うみさんに市原——妹——にちゃんと言ってくれてありがとうと、カステラ屋に寄って直接伝えようと思っていたところもあったので、19時閉店のお店に間に合わなかったのは少し無念だったのも事実だった。
では、もう元々の目的が達成出来ないのになぜ足早に帰っているというのか?
そんなのもちろん、当たり前だ。
我が家に、待ち人がいるからである。
だいからの連絡では、だいは部活を終えてすぐ帰ったようで、18時半には帰宅したらしい。
その後着替えと必要な荷物を持って、うちに向かい、既に到着したとの連絡も受けている。
なればこそ、ここは一刻も早く家に帰りたくて当然。なので、俺はこうしてスタスタと俺と同じく帰路につく人々を追い抜きながら歩いているわけである。
辺りは既に暗くなってはいるが、まだ20時前だからか、それなりに歩いている人は少なくない。
昨日の深夜と比較したら、ほんと何倍ってレベルである。
そして、ようやくうちが見えてきたところで、俺の心が嬉しくなる。
いやぁだってね? 家の電気、ついてんだよ? 俺がいないのに。
まぁだいからの連絡なかったら、あれ? 消し忘れたか? とかって思うとこだが、今日は違うのだ。
だから、俺の足取りは軽い。
そして軽やかに階段を上り、家主のくせに、あえて家のインターホンを鳴らしてみると——
「はい」
と、短いながら聞き慣れた好きな声が、返ってくる。
もうそれだけでテンションが上がるのは、週末だけだからではないのは当たり前。
「ただいま!」
そんな返事に、俺は扉越しに大きな声で答えてみせ、待つこと数秒。
「おかえり」
ガチャ、っという音と共に、扉で顔の下半分を隠しただいが、いい匂いとともにちらっとこちらを見ながら現れて、高かったテンションが一層高くなった自覚が、自分でもはっきりと分かった。
この顔のチラ見せ、ズルくない? 可愛すぎん? 俺って分かってるからこその、この対応なわけでしょ?
いやぁ、彼氏冥利に尽きますなぁ!
と、ハイテンションな内心でそんなことを、思いつつ、俺は開けてもらった扉の内側に入り、ドアを閉めて——
「ただいま!」
「うん、おかえり。……お疲れ様」
と、今度は直接、ただいまのハグをしながら、帰宅の挨拶を声に出す。
それに対して元気よく返事、というわけでもないが、急なハグに照れた感じの、ちょっと甘えたボイスが返ってきて、一気に俺の疲れを癒してくれたのは言うまでもない。
そのまま、ちょっとしばらくハグしてたのだけど、されるがままのだいはそれはもう、とてもとても愛おしかったです。
「えと、先にご飯食べちゃう? それとも、お風呂入る?」
「っ!?」
「な、何よ?」
「え、あ、い、いや……」
思わず「それとも、は?」と言いたくなった俺を、責められる者など誰もいまい。
こんなテンプレートなこと、まさかリアルで言われる日がくるなんて。
ヤバいなこれ。まるで新妻じゃん……!
「それで、どっち先にする?」
だが、そんな俺の興奮など露も知らず、早く答えなさいよと言わんばかりの視線と言葉が俺を責める。
その様子と、あまりの可愛さに忘れていたいい匂いに誘われて、俺が答えたのはもちろん食事。
もしここで「
そんなことを考えながら、相変わらず美味しくヘルシーな夕飯を一緒に食べ、先週は一緒出来なかったお風呂に入って明日のオーダーやら基本的な戦略について話し合い、洗い物なんかの家事も済ませた21時30分過ぎ。
大会前夜ではあるが、二人揃って俺たちの大切な世界へ旅立つのだった。
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