第420話 最悪の空気の中で

 負けた。


 勝てる試合だった。

 でも、一発勝負の高校部活の大会に、やり直しは効かない。

 もしあんなことがなければ——

 でも、試合結果にifはない。

 サヨナラ負けだ。

 この事実は変わらない。


 俺たちのやり方でも勝てることを佐竹先生に示そうと思っていたとか、この結果ではただの思い上がりにしかならない。

 いや、思い上がりどころじゃない。

 俺たちが負けたのは、俺とだいのせいだ。

 今日が大会だと分かっていたのに、前日にあんなことをしていたから、負けたのだ。

 いや、もっと言えばその前からこの結果に関わることを起こしてしまっていた。

 敗因を探れば、いくらでも言えることがあるのだ。


 だいがどう生徒たちに対応すればいいのか困惑をしていることは分かっていたけど、濡れたユニフォームのままでは風邪を引いてしまうかもしれないから、積極的に動こうとしないだいを無理矢理動かして、なんとか生徒たちを女子更衣室まで連れて行ってもらった。

 ……いや、俺が市原の近くにいれる気がしないから、離れたかったのだ。

 そうして俺は先に着替えを終え、この後行われなければならないミーティングのため、屋根のあるピロティで一人ぼーっと、しとしと降り続ける雨を眺めていた。

 でも、この後のミーティングで、何を言えばいいのだろうか。

 「惜しかったな」? 負けたのは監督のせいなのに、それは虫が良過ぎる発言だ。

 「次は勝てる」? たしかにそうかもしれないが、最後に出てきたピッチャー相手に、そんな保証があるだろうか。

 じゃあ、「市原のメンタルを乱してごめんなさい」? 結局これ以外浮かばない。でも——


 いや、生徒たちはよく戦った。

 それでも負けたのは、俺が生徒たちを通常通りの気持ちで戦わせてあげられなかったから。

 それに尽きる。

 情けないったらありゃしない。


 ……ま、これであいつ市原もさすがに愛想をつかすだろう。

 そこに全く寂しさを覚えないと言えば、少しは嘘が混ざるけど。

 あいつに好かれて、面倒なことも多かったが、楽しかったことも、たしかにあった。

 まぁなんたって、可愛いからな。

 立場があるから粗雑に扱えたけど、同級生とか後輩とか、そういう立場として出会っていたら、間違いなく関係は違っただろう。

 ……いや、でも今の立場じゃなかったら、今みたいな関係ではなかったな。

 先生と生徒だからこそ、築けた関係性なんだと思う。


 でもそれも、終わり。

 さすがに部活を辞めたりはしないと思うが、これからの関わり方は、普通の女子生徒と同じになるだけだ。

 程よい距離感で、程よく話す。

 そんな関係に変わるはずだ。


 「嘘つき」と言われ、「怒っている」と言われた時の表情は、今考えれば本気の表情だった。

 あの時の睨みつけてくる市原の顔が、脳裏から離れない。

 嫌われたりしない、なんだかんだ許してくれるというか、言いくるめられる、俺はそう高を括っていたのだ。

 だからああやって本気の感情を見せつけられて、困惑しているのだ。


 市原に頼って甘えていたのは、俺の方だった。

 監督でありながら、チームの大部分をあいつに背負わせた。

 その報いがこの結果、そういうことだろう。

 

 あー、こういう時プロスポーツなら間違いなく引責辞任とかするだろうに、高校部活の顧問には、辞任する権利もない。任命したのは校長で、少なくとも今年度いっぱいは俺が顧問なのだ。

 ……立て直せる、だろうか……。


 もし、もし市原が俺を許したとしても、あのストレートな感情を見せられた俺は、これまでと同じように市原と接することが出来るだろうか。

 

 と、俺の頭の中は「この後のミーティングが嫌だ」という気持ちと、市原のことでいっぱいだったのだが——


「お疲れ様でした。残念でしたね」


 そんな俺のとこにやってきたのは、アナザー市原の、うみさんだった。


「寒い日の差し入れって難しいですよねぇ。色々考えたんですけど、あったかいのは渡る時に冷めちゃってるかもしれなかったので、結局チョコレートにしました」

「あ、ありがとうございます……」

「倫ちゃんには、はい。これどうぞ」

「え、あ……ありがとうございます」


 そして今俺が考えていた人物と2Pカラーレベルで似ている彼女から、お菓子の入った袋と、まだ温かい缶コーヒーを渡される。

 その缶コーヒーは、無糖だった。


「あ、苦いの大丈夫でした?」

「平気ですよ。お気遣い、ありがとうございます」

「いえいえー」


 そう言って、両手で缶コーヒーの缶を握る俺の隣に、傘を畳みながらうみさんがやってくる。

 

「いやはや、雨が降ると寒いですねぇ」

「そう、ですね」

「応援してる時はそんなに寒いと思わなかったのに、終わってみれば寒々ですよ」

「そう、ですね」

「……話ちゃんと聞いてますー?」

「え」


 畳んだ傘を手首にかけて、両手を温めるように擦り合わせながは、隣に立つうみさんの世間話は本当にザ・世間話みたいな内容だった。

 そんな内容だったので、大したリアクションもしてなかったら、ずいっと顔を覗き込まれ、少し不機嫌そうな眼差しで睨まれた。

 その表情とよく似た顔の記憶が引き戻され、俺は思わず目を逸らす。


「ありゃ? あ、もしかして顔が近くて照れちゃった、とかですかー?」

「……違います」


 だが、目を逸らした俺の反応に何を勘違いしたのか、すぐさま不機嫌を直して、笑いながら言ってきたうみさんの言葉を、俺は真っ直ぐ突き返す。

 今ばかりは、彼女の軽口に乗るような余裕が俺にない。


「ふむ」


 そんな俺のつまらない反応に、なぜかうみさんは一度一人で頷いて——


「それで、そらが乱調になったのは、首筋のそれが原因ですか?」

「……え?」


 トントンと自分の指先で首元を示しながら、突然口にされた言葉に、俺はまるで心臓を一突きされた心地だった。

 まさか今の動きは、俺の首を確認するため?

 だが、そんなことを確認することなど俺には出来ない。

 何故なら彼女の声のトーンが、真剣味を帯びていたから。

 これまでの少し茶化すというか、重たい空気を和ませようとする声に対し、今発せられた声には、鋭さがあった。

 ……そりゃそうか、姉だもんな。

 妹が急に乱調になったら、何か原因があるはずって思うだろうし、うみさんは市原の気持ちを知ってるわけだもんな。

 それで見つけた、この跡。

 もうすっかり隠すことも忘れていたせいで、簡単に見つかったのだろう。


「お恥ずかしい限りですよ」


 うみさんには朝も会ったのだから、俺が隠していたことは伝わっているだろう。

 だからもう、隠すこともできやしない。

 いや、そもそももう隠す気もないのだ。

 だから俺は、少し投げやりに開き直って、そう言った。


「ふむ。つまり里見先生のせい、ですね」

「え? ……いや、あいつは——」

「だって、それ自分じゃ付けられないじゃないですか」

「——」


 そんなやさぐれとも取れる俺の答えに、うみさんが俺ではない人物のせいと答える。

 だが、だい彼女のせいという話を自分でするのではなく、人からされるのはそう易々と受け入れられるものではなく、反射的に俺はそれを否定しようとしたのだが、後先なく口にした否定に論理性は皆無で、俺は結局口を噤まざるを得なかった。


「別にお付き合いしている二人なんだから、何しても自由だとは思いますよ」


 そんな俺にうみさんは続ける。


「朝は見えなかった気がするので、隠そうとしていたのも分かります」


 彼女の言葉を、力無い視線で受け止める俺。

 そんな俺に、彼女は——


「でも、隠すならバレてんじゃねーよ、って感じですかねー」


 と、俺の耳元に顔を近づけて、そう呟く。

 そして分かる。うみさんの感情。

 

 当然だ、妹の試合を台無しにされたのだから、彼女だって怒っているのだ。

 そんな彼女に俺は——


「むしろ隠してバレるくらいなら、堂々としてた方がまだマシです」

「すみません……」

「きっと隠してたのがバレたから、そらの調子が狂ったんでしょう?」

「……すみません」


 と、謝るしか出来ず。

 でも、変に慰められるより、こうして言ってもらえる方が気が楽だった。

 簡単に自分が悪いと思えるから。

 自分で自分を責めるよりも、責められる方が圧倒的に楽なのだ。

 とりわけ自分でも自分が悪いと思っている時には。


 でも——


「でもそれ、大方里見先生からのマーキングですよね? だから私が怒ってるのは里見先生の方ですから、倫ちゃんは謝らなくていいですよ」

「え、や——」

「あ、でもそれが倫ちゃんの性癖って言われたら、ちょっと話は変わりますけどー」

「せ……え!?」

「私もちょっと特殊なタイプなのでっ」

「いや、そんなことキラッとした顔で言われても……」


 怒っているという真面目な話だと思っていたのに、気付けば性癖だの特殊だの、反応に困る言葉をこんなタイミングで使われ、俺は困惑した。

 でも、当のうみさん自身は笑っている。

 いや、あなた怒ってたんじゃないの?


 ……ほんと、よく分からない女だな……!


 かと思えば。


「倫ちゃんに愛されてるって、何で分からないんですかねー?」

「へ?」


 と、急に話が戻り、その話題転換は、全く先が読めなかった。

 何を、唐突に……。


「まぁそこは個人の感覚なので何とも言えないですけどー」


 そんな彼女に、俺は何も言うことが出来ず、しばしの沈黙が流れる。

 周囲からはシトシトと降り続く雨の音が聞こえる。

 きっと俺たちの次の試合は、順延だろうな。


「いっそ束縛されたいタイプかも?」

「いや……」


 そして少しの間を置いて告げられた言葉に、俺は呆れるが……否定できない想像も、浮かんでしまった。

 というか、だいならたぶん平気というか、ちゃんと言うことを聞いてしまうだろう。

 でも、そういうのは俺の方が出来ない、無理だ。

 相手の自由を奪うなんて、俺には出来ない。

 そんな関係で、いたくない。

 自分に自信がないとかじゃなくて、だいとは当たり前に自然体の関係でいたいのだ。


「とにかく、いつまでもそんなしょげててもダメですよ、大人なんだからー」


 だが、いつまでもうじうじしている俺に呆れ果てたのか、うみさんが俺の額を小突いて、無理矢理に俯きがちな顔を上げさせてくる。

 そうやって上げられた俺の目を、彼女は真っ直ぐに見つめていた。


「私が部員だったら、顧問の性生活を知らされるのもやですけど、いつまでもうじうじされてる方が嫌ですね」

「……はい」

「そんな倫ちゃん、そらだって見たくないですよ。好きな人には、カッコよくいて欲しいものですから」

「いや、俺なんかもう……」

「おやおや? うちのそらのことを舐めないで欲しいですねー。昨日夜電話しましたけど、言ってましたよ? 倫ちゃんを日本一の監督にするんだー、って」

「いや、そんなスケールのでかい話——」

「そりゃ大人からすれば現実味のない話ですけど、子どもは目標をおっきく持つものでしょ? それに言ってました。倫ちゃんが私を信じてくれるから、私は負けないんだ、って」

「……あいつ……」

「お姉ちゃんからしたら、彼女持ちのアラサー男性にそんな一途な恋をされて、ちょっと複雑な気持ちもありますけど、恋とかそういうのじゃなくても、そらは倫ちゃんのこと好きだし、信頼してたんですよー」

「……分かる、気がします」

「じゃあやっぱり、ウジウジしてちゃダメですよね? 負けは負け。それはちゃんと受け止めて、堂々とそらに、みんなに謝ってくださいよ」

「……そう、ですね。いえ、そうします」

「ん、やっと普段の倫ちゃんに戻ってきましたね?」

「え、普段のって……」

「ま、そんなに普段の倫ちゃんのこと知らないですけどねー」

「……ですよね」


 そう言って、うみさんが目を細めて笑う。

 その顔は、市原が友達と楽しそうにしている時の笑顔と、そっくりだった。

 しかし、年下のうみさんにここまで言われるまで、ずっとうだうだ考えていた自分が情けない。

 そんな思いも込み上げるが、ちゃんと向き合わないで今日を切り上げようとするなんて、どう考えても言語道断なのだ。

 開き直りでもいいから、俺はちゃんと向き合わなければならない。

 生徒から侮蔑され、軽蔑されても、俺は監督としてチームを率いてきたのだから、その責任からは、逃れられない。

 だから、ちゃんと謝る。非を認めて謝る。

 それを生徒たちがどう思うかは、生徒たちの感情だから、そこでやっぱり拒絶されたとしても、俺はそれも受け止める。

 大人として、教員として以前に、人間として。非があるならば認めて謝り、結果を受け入れるのが当たり前なのだ。


「すみません、ありがとうございます」

「いえいえ。その感謝は、日頃妹がお世話になってることと、スキル上げ主催への感謝で相打ちってことにしておきますー」

「このタイミングで妹がお世話になってるって言われても、嫌味にしか聞こえないですよ?」

「いやいやー、ちゃんと感謝してますってマジでー倫ちゃんせんきゅー」

「いや棒読み!」

「あはっ、やっと戻ってきましたねー」


 俺が顔を上げ、そのきっかけをくれたうみさんへ感謝を伝える流れの中で、自然と湧き出た自分のツッコミ。

 その炸裂に、うみさんがまた笑う。

 その笑顔は、素敵な笑顔だった。

 だから、俺もつられて笑った。


 でも、本当に彼女のおかげで、ちゃんと向き合う覚悟が出来た。

 中途半端に謝り、逃げることで俺は本当に取り返しのつかないことをするところだったのを、回避できた。

 ……いや、回避出来るかは分からないが、少なくとも俺の中で一生後悔して、引きずるようなことにはならずに済んだ、と思う。

 さすが、名サポーター〈Rei〉さんの中の人だな。


「あ、そう言えばさっきしれっと特殊なタイプとか、変なこと言ってましたけど」

「おやおや、まさかこのタイミングでそこの話題戻しますかー。変態さんだなぁ、倫ちゃんは」

「えっ、いや、えっ!?」

「やだなー、もー」


 そしてだいぶ気持ちが楽になった俺は、まだ生徒も戻ってこなそうだったので、さらっと話の途中で出てきた単語について聞いてみたのだが、どこにスイッチがあったのか、うみさんはさらっと俺に変態と言い放って、軽くバシッと肩を叩いてきた。

 そんなやりとりをしていた、その時——


「この泥棒猫めーっ!」


 リアルでそれ聞くことあるんかい!?


 突如聞こえてきたのは、反射的にツッコミが先に出るほど今日び全く聞かなくなった言葉。

 だがその声には怒気が含まれていたような、そんな気もした。

 そうして声のする方へ、俺とうみさんが顔を向けたのは、ほぼほぼ同時なのだった。

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