第621話 向かった先で
「ここ?」
「あ、ああ」
静寂を切り裂くバイクの音が止まり、静かな夜が帰って来る。
だが対照的に俺の心臓はまるで爆音を奏でるように鼓動を繰り返す。
さっきレッピーは、俺んちで続きを、そう言っていた。
それはつまり、そういうこと。もう子どもじゃないんだから、意味することは一つだけ。
そんな想像をすればするほど下腹部のアレに反応するけれど、却って俺はレッピーの顔を見れなくなった。
だって、本当に——?
ここに来てそんな戸惑いと葛藤が俺の中でぐるぐるぐるぐる渦巻きだし、数分前からの混乱は今だに全く治らない。
だがそんな俺を置いてレッピーは颯爽とバイクを降りてヘルメットを取り、夜の灯りの下にその可愛らしい顔を明らかにしてから、被っていたそれをバイクに固定して俺の方に向き直る。
「メット寄越せ」
「え、ああ」
そして照れるでも呆れるでもなく、淡々とした表情で俺にもヘルメットを取るよう促してきて、俺は言われるがまま頭に被っていたそれを取りレッピーへと手渡した。俺からヘルメットを受け取ったレッピーはまた手慣れた様子でそれをバイクへと固定する。
そして——
「つかいつまで乗ってんだよ? 流石にずっとそのまんまじゃしんどいだろ。行こうぜ」
と、視線をやや下に向けながら俺に降車を促した。
何を確認したかは、もう言わずもがな。
そう、たしかに俺のリビドーは今もなおそのエネルギーを衰えさせることなく力を漲らせていて、彼女の「行こうぜ」に着いていけばきっと快楽を満たすことは出来るだろう。それにレッピーならば後腐れなく割り切った関係でいける気がするし、心に正直に向き合えば、俺自身がレッピーとシてみたいかどうかと言えば、きっと首を縦に振ることになる。粗雑な性格のくせに可愛い顔と可愛い声のこの美女が、アレの最中にどんな姿を見せるのか。男ならばそれを見てみたいと思うのは分かってもらいたい。
でも——
「あ、あのさ——」
女性の方にこんな状況になるようなことを言わせておいて何を今更と思われるかもしれないが、心の中に思うことを、本能と欲望をそのまま満たすことが正しいのか?
今この状況になって、ずっと抑え込まれていた考えが、俺の中でようやく水面下から顔を出す。
それはたぶんヘルメットを取って夜の冷たい風が直に頭に触れ出したからかもしれないし、俺の道徳心がようやく働き出したからかもしれないし、俺が単純にビビリでヘタレな奴だからかもしれない。けれども何はともあれ先ほどからずっと移動無効・麻痺・混乱・石化等々のデバフラッシュを食らっていた俺の理性が、少なくとも石化状態からは回復して、俺はレッピーに己の意思を告げようとした。
その時——
「あっ!! 北条先生っ」
バイクに跨ったまま、意を決してレッピーに言葉を伝えようとしていた俺と、先に降りたレッピーが向かい合っていた中聞こえてきた、俺の言葉を遮る新たな声。
それは当然レッピーの可愛らしいアニメ声ではない、あまり聞き馴染みはないが、最近どこかで耳にした気がする声だった。
そして俺とレッピーが新たに聞こえた声の方に二人揃って振り向くと——
「ご帰宅遅かったですね! あっ、そちらはご友人の方ですか? こんばんは。でもとにかくやっと北条先生に会えて嬉しいです!」
俺の顔を見るやサッと俺の前にやってきて、嬉しそうな真面目そうだが割と童顔フェイスの黒髪ボブの女性が現れる。そしてその嬉しさを一才隠すことなく、バイクに跨ったままの俺の顔を覗き込み、ぶわーっとその喜びを伝えてくる。
そんな存在の登場に、彼女から「ご友人」と思われた人物が——
「やっと会えた? おいお前もしかして先約か?」
と、その声色に怪訝そうな色を浮かべながら、現れた女性とは対照的にどことなく不満そうな表情を浮かべてひそひそと小さな声で聞いてくる。
そんな彼女たちに応えるべく、俺はひとまず先にレッピーへ向き直り——
「先約ではない。断じて違う。でも知り合いではある」
と、とりあえずレッピーの問に答え、知らない人ではないことを伝えてから。
「あの、なんで佐竹先生がここに? ご自宅この辺じゃないですよね?」
再び何故ここにいるのかが分からない新たな登場人物たる佐竹先生へ向き直り、俺はここにいる理由をストレートに尋ねてみた。
時刻は既に21時27分、平日に自分の住んでいない住宅街を歩くような時間では決してない。
そんな疑問をぶつけた俺に——
「はい、私の家はこの辺じゃありませんけど、今日うちの生徒から星見台の生徒さんと仲良くなったから、今度合同練習したいと申し出を受けまして、直接お願いに来た次第です!」
「——は?」
それは別に直接じゃなくともいいじゃないか、というか普通に職場のメールか電話での連絡でいいだろ、ってことを目を線にするくらい嬉しそうにハキハキとした口調で言ってこられて、俺は完全に呆気に取られた声を出す。
しかしそれだけでは終わらず——
「ですから19時くらいにお家へ伺いに来たんですけど、北条先生がご帰宅されてなかったので、この辺りを歩きながらしばらく待たせてもらってました! あ、これ前ご一緒したお店のカステラです。よかったらどうぞ!」
「あ、はい。どうも……いや、じゃなくて!?」
俺は渡らせた袋を反射的に受け取りながらも、一体全体何を言ってるんだという佐竹先生に全力で意味が分からないと表情で訴えながら——
「19時からって、もう2時間以上経ってるじゃないですか!? というかマジそんなの明日メールくれれば十分だったでしょ!? え、なんでわざわざうちまで——」
「だって仲良くしてくださいって言ったじゃないですか! それにこの辺に北条先生が住んでるんだなーって思いながら街歩きするのも楽しかったですよ?」
「……え、何? ストーカー……?」
俺が「あなたの言ってる言葉の意味が分かりません」を言語化するや、佐竹先生からは斜め上な言葉が返ってきて、その内容にレッピーが同意したくなる言葉を呟いた。
いや、たしかにこの前去り際の彼女にそんな言葉は投げかけられたが、その発言をするまでの彼女はあからさまに俺のことを敵対視というか、絶対良い感情は持ってなかったはずなのに
それが一気にここまで変わるのか? その変化に俺の脳が混乱する。
そしてこのさっきまでとは別な意味での混乱に、気づけば俺のリビドーも消え去って、俺のあいつが平常時モードに移行していた。ちなみにそれに気づいたレッピーが「あ」みたいな感じを見せていたのは、とりあえず気付かなかったフリをしておこう。
さりとてだ——
「いやほんと、仕事の話なら学校いる時でいいですからっ」
「そうですか……」
俺が改めてこんなことはやめてくれを主張すると、ようやく佐竹先生がそのテンションを下げてくれたと思った矢先——
「なんか聞いたことある声……あっ! お兄様じゃないッスかー!」
「あっ、ちょ、リリ!? って、えっ!?」
佐竹先生が立つ方とは反対の、うちのアパートの外階段の上側から急にやかましい声が聞こえるや否や、振り返った俺に向かってダウンジャケットを着た外ハネショートの女性が勢いよく階段を駆け降りてやってきて、階段上で驚く別な女性を置き去りにしたまま、俺に向かって飛びついてきたではありませんか。
「え、てかてかお兄様バイク乗ってたんすか!? いいなぁ! ってあれ!? さっちゃんじゃん! どしたん!?」
「ちょっとリリ! 倫にそんなベタベタくっつくなって!」
そして俺のことをお兄様なんて呼びながらチャームポイントの八重歯を見せる笑顔と共に俺の右腕に抱きついてきた女性は、当然うちの隣人たる風見さんで、そんな彼女の後を追うように階段を降りてきて俺から彼女を引っ剥がしたのは……我が家周辺では初遭遇となる、
「今度は誰だ? この可愛い子と綺麗なお姉ちゃんも知り合いか?」
「こんばんはリリアとカナちゃん。今日は北条先生に用があって来ただけだよ」
そして新たな登場人物にレッピーが怪訝そうな顔をこちらに見せ、佐竹先生は穏やかな様子で新たに現れた二人に挨拶する。
というかレッピーさんや、君今絶対「お前こんなに他の女がいたのかよ?」みたいなこと考えてるよね勘弁してくれ……!
たしかに俺がバイクから降りる暇もなく、いつの間にか俺の周りには四人もの女性が集まってきているが、別に「今日うちに集まれ」なんて約束は当然全くしていない。というかするわけない。
むしろ俺だって今日はレッピー以外と会う予定は立ててなかったわけですし。
それなのに、何故——?
この状況、どうしてこうなった?
そんな混乱がさっき回復しかけた俺にやってきて、俺の頭が再び機能を停止しかける。
だが何もせずに何が起こるわけでもなく、むしろちゃんと説明しないと大変なことになりかねない、そう考えてこの場をどう捌こうかと思い始めたのに——
「あれあれ? なんだか声がするなーって思ったら、これはこれは倫ちゃんじゃないですかー。どうしたんですか? 可愛い人たちに囲まれて」
「お、レイじゃん。よっ」
「あっ、レッピーさんじゃん、お久ー。倫ちゃんとリアフレだったんですねー……ってあれ? 里見先生はいらっしゃらない? おやおやこれはなんだか面白そうですねー」
この混乱に拍車をかけるかの如く、ご近所にお住まいの
ああ相変わらず顔はマジでタイプだな、きっと何事もなかったらそんなことを思ったのかもしれないが、流石に今はそんな考え浮かびもしない。
いやほんと、今日という日は何なのだ? え、これがあれか? 俺がリビドーに支配されかけたことへの罰なのか? それともアレか? 俺のリビドーを収めるには5人を相手にしろってことなのか——ってそんなわけあるかい!
と、自分自身の混乱も含めてどう収拾をつけたらいいのか分からない、そんな状況に俺は文字通り地面を向いて頭を抱えた。
周りからは俺に向かって何か言ってくる音を感じるけれど、最早一つ一つを聞いていられる余裕はない。
むしろこれ以上混乱することが起きませんように、そう諦めの境地で思った瞬間——
「え!? 何これどういう状況!?」
「亜衣菜さんどうしたの——え……ごめんなさい亜衣菜さん。これは私もちょっとよく分からない」
いや、なんかこの流れだと、もういっそ現れるような気はしてた。
この混乱の極みの中、新たに現れた声二つ。
それは方ややや高めの可愛い声で、方やクールで落ち着いた声。
その落ち着いた声こそが、俺の心にすーっと染み込むように入ってきたのだが——
「こんばんは。とりあえずこの状況について、ゼロやん説明してくれる?」
優しくにこりと微笑むように、美しい顔立ちが俺を向く。
だがその微笑みが俺の心を癒したりはしない。
これが俺の犯そうとした業故の責苦なら、背負う以外に道はないだろう。
猫目の可愛らしい茶髪ショートの美女を伴って現れた、凛とした美しさを備える黒髪美人が怖いくらいの微笑みを浮かべて告げたこの場を取り仕切る発言に、俺は深く深くため息をつくのだった。
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