第645話 分からない、分からない、分からない?
「え、ちょ、あの——」
視線の先のソレに、心臓の鼓動が早くなる。
それは俺が今まで感じたことのないくらいの早さで、このまま心臓が暴走して口から飛び出てくるんじゃないか、そんなことを思ってしまうほどのスピードだった。
でも、しょうがないだろう。
だって目の前の出迎えてくれた彼女が、利き手に包丁を握っているのだから。
刺される? 準備って? それ何に使うの?
ぐるぐる回る頭は大混乱。
それにここまで、もう一人うちの中にいるはずの奴について、話がない。
え、まさか? なんだこれ。どうなるんだ?
そんな極地に至る中——
パシャッ
響き渡った、突然の機械音。
その音が何の音か、それに気づくのにも時間がかかった。だがハッとそれが何の音だったか気づいて俺が室内を見渡すと——
「いやぁ、見事なビビりっぷりご馳走様。ほら、見てみ?」
「あ、ほんとだ。すっごい怖がってるね」
いつの間にかキッチンと部屋を隔てる扉が開いていて、そこから小柄なシルエットが登場し、この空間の新たな登場人物として現れる。
その人物は綺麗な茶髪とくりっとした瞳を宿す可愛らしい顔に、朝から変わらぬパジャマ姿をしていて——
「はっ!? えっ!? 生きて——!?」
その姿を現認し、俺の混乱が極まった。
だがそいつは黒髪美人に今撮った写真を見せながら、何とも言えない苦笑をこちらに向け——
「おいこら勝手に殺すな。つーかどうした? 豆が鳩鉄砲くらったみたいな顔してるぜ?」
俺の驚きをさらりと流し露骨なボケをかましてくるが、俺は右手に包丁を持った奴と新たな登場人物を、口をパクパクさせながら見比べることしか出来やしない。
そんな俺をよそに——
「鳩から豆になったと思ったら今度は鯉かよ、せわしねーなー」
「ふふっ、だね。でもここまでなったゼロやんは初めて見るかも」
「たしかにツッコミも出来なくなるとか、アイデンティティ喪失レベルだなー」
「うん、でもおかげで上手くいったよ。ありがとねレッピーさん」
「んや、別にアタシはただ写真撮っただけさ。主演女優はだいだろって」
「私はただゼロやんにおかえりって言っただけだよ?」
「右手のそれとだいの言い方のギャップだろ。正直アタシがゼロやんの立場なら、とりあえず一回ドア閉じてたな」
「ふむ。でも包丁持ってみたらって言ったのはレッピーさんだし、上手く驚かせられたよね」
「んむ。120%の驚きだな」
と、もう何を言ってるのか分からない会話が展開される。
主演女優? レッピーさんのおかげ? え、いや、てか、この二人なんで普通なの!?
理解できない言葉の応酬に、俺は目をガン開きにして二人を眺めるのみ。
「でも怖がらせてごめんね。とりあえずご飯の用意終わらせちゃうから、手洗いうがいしたら、向こうでレッピーさんと待っててね」
「夕飯ごちでーす」
だが一度包丁をキッチンに置いてから、だいが俺の背中を押して洗面所へと連れて行き、合わせてレッピーが部屋へと戻っていく。
そして言われるがままに帰宅直後の作業を済ませ、呆然としたままキッチンにだいを残してレッピーの待つ俺の安息の地のはずだった部屋に戻ると——
「……すまん」
「え?」
入ってすぐ、まず届いたのは小さな声。
昨日同様ちょこんと俺のベッドに腰掛けたレッピーが、何か深く思い悩むような顔をして俺に一言謝ってきた。その顔は、一昨日から一回も見たことがない、明らかに弱ってそうな、困ったような顔だった。
「な、何が?」
でもその謝罪が何に対してなのか分からなくて、俺は反射的に問い返す。
浮かぶところは色々あったが、そのどれかが分からなかったから。
「いや、今の。だいにどうすればお前を驚かせられると思うかって聞かれたから、いいアイデア浮かばなくて咄嗟に悪ノリした。すまん」
「え、だいに? あ……あー……あー……うん。そっか」
「うん。あ、謝ったのはこの件だけな。お前とシたこととか泊まったことか帰んなかったことについては謝んねーからな」
「いや、それは謝られることじゃないっつーか、謝られる筋合いがねーよ。むしろヤったことは俺も同罪だし」
「ん」
そしてレッピーが謝ってきた理由が明らかになったあと、俺たちは今朝とは異なる、少し辿々しいやりとりをした。
でもそうか、だいが驚かそうと提案した、のか。
普段のだいならそんなことはしないだろうから、それはつまり、そういうことなんだろう。たぶん。
というかむしろ「驚かそう」で済んでる方が意味分からん。
ここに来るまではあんなに色々恐れていたのに、今その事実を察しても、案外俺の心は揺れていなかった。
既に覚悟を決めていたのもあるが、たぶん共犯者のようなレッピーから聞かされているってのが、俺の動揺を減らしてくれたんだと思う。
赤信号、みんなで渡れば怖くない、的な。でも——
「……ん? どうしたんだ?」
俺に謝る点と謝らない点を伝えてきた時のレッピーは、割と普段のレッピー感があったのだが……気づけばまたレッピーの様子が戻っていた。
緊張し、落ち込む、気を病む、そんな感じというか……いや、よく見れば——
「お前、手、震えてんのか?」
そう、よくよく見れば行儀良く膝の上に置かれたレッピーの手が震えてた。
その俺の気づきに怯えた目が向けられて——
「……き……ん……よ」
「いや、聞こえねーよ」
立ったままの俺を見上げながら微かに動かされた唇が紡いだ音を、俺は聞き取ることが出来なかった。なのでその声が聞こえるように俺はレッピーの隣に腰を下ろす。
すると——
「お前の顔見てちょっと落ち着いたけど、やっぱり理解できなくて
「え?」
キッチンのだいに聞こえないようになのか、その声は隣にいてもギリギリ聞こえるかどうかだったのだが、レッピーはたしかに「怖い」と、隣室にいるだいに対してそう言った。
もちろん俺もさっきはマジで怖かった。でもレッピーは普通に接していた、そう思っていたのだが……どういうことだ?
「何があった?」
尋ねたことで何かを思い出したのか、レッピーの震えが少し大きくなったが、この怯え方は普通じゃない。
でも朝のレッピーにはこんな様子は一切なかった。これはつまりだいと会ったから、というのがどう考えても明らかだ。
果たして何があったのか、俺は怯えるレッピーの顔を真っ直ぐに見つめながら、レッピーの質問を待つ。
そして長い沈黙の後——
「……罪悪感」
「うん?」
レッピーの薄い唇が小さく動き、ぽつりと呟いた。白い顔がより白くなったように見えるレッピーが話し出す。
「お前が仕事行って一人になったらさ、やっぱり罪悪感出てきてさ、だいに朝連絡したんだ。泊まる許可ありがとうってのと……ごめんって」
「え、朝?」
「ああ。でも誘ったのはアタシだからって、ちゃんと言ったからな」
「いやだからそれは俺も同罪だって」
「……うん」
その中で朝の内にだいが昨夜のことを知ったことが明らかになり、覚悟を決めたはずの心がざわついた。
つまりだいは、昨夜何があったかを知った上で、今日の14時頃、俺にうちに向かうと言ってきてたのだ。
俺からは何も聞いてない状態で。
俺とレッピーに秘め事があったのを知りながら。
それを考えただけで、俺も身体が震えてきそうだ。
「朝伝えたのはそれだけなんだけどさ、だいからは『何の謝罪か分かんないけど、レッピーさんが雨に打たれなくてよかったよ』って返ってきた」
「……マジか」
「うん。それでその後一旦言葉を額面通りに受け取ろうって思い込んで寝て、起きて、飯食いに行ってって、お前に連絡した通りのことした後、この家で待ってたらさ」
「うん」
「だいが来た」
「レッピーが家にいるのは、知ってたんだよな?」
「ああ。謝った連絡の中で伝えたよ。その点についてもだいは『無理しないでゆっくり休んでね』って感じだったけどな」
「あー……なるほど」
そして怯えるレッピーを見ることで怯えそうな自分を抑えながら、俺は続けられた彼女の言葉を聞き続けた。
でも話す内に少しずつレッピーの震えも減っていた。
これはやはり話すことの効果、誰かと共有することの効果ってとこだろう。
とはいえ——
「だいが来たのって、遅くとも16時前だよな……?」
「ああ。15時半くらい、だったと思う」
「つまり、そっから……か」
今俺が聞いたもの。
それはレッピーがどのくらいだいと一緒にいたのか、だ。
現在時刻は19時頃。つまりそれは、レッピーがおよそ3時間半、だいと二人でこの家にいたって事実に他ならない。
その間に交わされた言葉に、おそらくレッピーがここまで怖がるに至った理由があるのだろう。
今回の件はだいにもきっかけを作った原因を感じなくはないが、それでも主犯は俺たち二人だ。
さっきの笑顔の裏で、だいが怒りの業火を胸中で燃やしていても、俺たちには何も言えない。
そんなことを考えながら、俺は続きのレッピーの話を聞く覚悟を決める。
「だいが来るなんて聞いてなかったからさ、流石にあの時はビビった。なんつーか、夜のメッセージではああ言ってたけどさ、やっぱり相手の顔見たら湧き上がる感情があるかもじゃん? アタシがだいの立場ならたぶん普通に許せない、そんな風に思ってたからさ、ワンチャンこれ刺されるかなとか、そんなことも考えたよ」
「う、うん……」
「でもまぁお前も言ってた通り生きてて、こうやってぴんぴんしてるからそんな展開はなかったわけだが……でもやっぱ、文字だけならまだしも面と向かって言われると怖かった」
「え?」
「普通に嬉しそうにさ、『元気そうでよかった』だってさ」
「……なるほど」
そしてまた少し怯える様子を見せだしたレッピーの話を、覚悟を決めた俺は粛々と聞いた。
いや、表面の言葉だけを辿ればレッピーが勝手に震えて、だいは気にせず友人と対面したって聞き取れる話なのだが、これを自分ごとで考えるなら、レッピーが怖がるのも無理はないだろう。
目に見える恐怖と目に見えない恐怖は、時と場合によって後者の方が恐ろしい。だってそこには想像の余地が残されるから。しかも相手が自分の理解を超えている状態であればなおさらだ。
「それでもアタシは謝ったんだ。だいから何言われたとしたって、客観的に見たらアタシは彼氏と寝た浮気女だろ? でもさ……」
「うん?」
本当に怖かったのだろう。話すレッピーの震えがまた増し出す。
だがそれでもなお俺は話を促して、レッピーも話をやめようとはしない。
それはきっと、互いが抱いてる罪悪感と責任を分かち合おうとするような、そんな感覚があったからだと思う。
「謝ったアタシに『なんで謝るの? 私は私の好きな人たちに幸せになって欲しいだけだよ?』って言われたよ」
「え——」
「むしろ謝って色々伝えようとしたアタシを遮ってさ、『幸せだった?』とか『どんな風に過ごしたの?』ってさ、根掘り葉掘り聞かれた」
「……は?」
「穏やかに、落ち着いて、優しい顔してな。正直あの時のだい相手に嘘ついたり誤魔化したり出来る空気はなかった。だからその……悪いけどマジで全部喋った」
「え……全部って……」
「何回ヤったとか、どんな風にヤったとか、お前の反応とか、アタシの気持ちとか、聞かれるがまま、全部」
「……マジ?」
「マジ。それ聞いてあいつ、『ゼロやんすごい元気だったんだね。そこはちょっと嫉妬しちゃう』ってちょっと拗ねた感じになった時もあったけど、基本飲み会で友達に彼氏との夜の話を聞くような感じで聞かれた」
「……マジか……」
「ああ。で、その話終わった後は、LAでの思い出話したり、だいとお前の惚気話聞かされたり、アタシとお前の思い出話聞かれたり、そんな話をした」
「そ、そっか……」
「うん。でも正直あんな雰囲気で話されると思わなかったっつーか、あの雰囲気でいられる理由が分かんなくて……怖かった」
「そりゃ、そうだよな」
「うん。アタシの人生で間違いなく一番怖かった。お前早く帰ってこいって、割と本気で思ったし」
「それは……すまん」
「いや、まぁ自分で蒔いた種だからさ、それはいいんだけど……でもあれだな、あいつの記憶力とんでもねーな。アタシとお前がこんな話してたよねとか、アタシが覚えてねー話まで出てきたぞ?」
「あー、たしかにだいは記憶力半端ない奴だけど……それも普通に、話したんだよな?」
「ああ。マジでカフェで友達と語るテンション。なんなら散々話した後、『また今度3人で遊びに行こうね』だってさ」
「……ふむ」
そしてさらにどんどんレッピーからだいと二人の間の時間がどんなもんだったかを教えてもらったが、途中からレッピーも軽い自暴自棄感出てきたし、俺は俺でもう笑うしかねーなって気持ちにもなるくらい、正直今の話は俺の予想の範疇を大きく逸脱するものだった。
だってだいは昨日も言ってたけど、俺のことを『私のです』って周りのメンバーに強調するくらいには独占欲が強いはずなのだ。
風見さんがあれこれしようとしてきた時とか、うみさんに対してとか、明らかに毛を逆立てる猫のような様子を見せてたこともある。
だから俺と一戦を超えたレッピーなんか完全アウト、だと思うのだが……。
「なんでこんな話になんのか、アタシには欠片も理解できねー。マジで怖い」
今の話を聞いてだいについて考え出す俺に、レッピーが投げやりな口調で言ってくる。
どうやら俺に全部話したことで、ステータスは恐れから理解不能に変わったらしく、いつの間にか手の震えは止まってた。
でも「なんでこんな話になんのか」、か。
その言葉を、俺は少し考える。
たしかに俺と
その時の俺は、たぶんレッピーと全く同じことを思ったけれど……。
あ。
「だいの昨日のメッセージさ、これ本気で言ってるよなって話したじゃん?」
「ん? あ、ああ」
「今日の会話も、正直裏がないっつーか、本気で言ってる感じがあった。それも謎い」
そうか、もしかして——
思い当たる点に行き着いた俺をよそに、いつの間にかレッピーは何か謎を解明しようとするような、何か決意ある表情に変わっていた。
でも俺は、ここまでの話から、一つの思うところに行き着いた。
「だいって、お前の彼女って何者なんだ?」
そして何かを本気で考える顔をこちらに見せ、レッピーが俺に尋ねてくる。
だいが何者か?
今俺が考えたことを伝えるに、何ともドンピシャな問いがきた。
そう、そうなんだよ。
納得してもらえるかは分からない。
でも俺は、少なくともレッピーよりだいのことを知っている。いや、だいの家族を除けば、世界で一番だいのことを考えてきた、自負がある。
つまりだいは——
尋ねてくるレッピーに真っ直ぐ視線を返し、俺はその問いへの答えを伝えようとするのだった。
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