第644話 逃げちゃダメだとか何回目

 キーンコーンカーンコーン

 17時ジャスト、茫然とスマホの画面を開いてそれを見つめたまま立ち尽くす俺の耳に、勤務時間終了を告げるチャイムが鳴り響く。


「……マジか」


 その音にハッとして現実に引き戻された俺は、この受け入れ難い現実に無意識に言葉を漏らした。

 だいからメッセージを受信したのは、どうやら今からもう2時間半前。だいの学校からだいの家まではどんなにかかっても自転車で30分弱。夕飯の買い出しをしたとしても、既に我が家に到着してるのは明白だ。

 それはつまり——


「いや、でもなんの音沙汰もないしワンチャン……」


 一度諦めを抱いてから、もう一度頭に浮かぶ現実を突き返そうと俺はだいから我が家への到着連絡がないことを超ポジティブに考えてみてみたが、そもそも今我が家には俺が我が家の鍵を預けた、俺が帰るまで帰らない状況のレッピーがいる。

 つまり二人が鉢合わせて、対峙し……恐ろしい状況になっている可能性の方がどう考えたって高い。高いというか、ほぼ間違いなくそうなっている、はずだ。

 そんな結論に至り、結局俺は期待を諦める。

 ああくそ、朝のバタバタで時間がなかったとはいえ、せめてだいに家にまだレッピーがいる話をしておけばよかった。


「……あぁ……」


 たしかにだいはレッピーに対して昨夜不思議というか、意図の見えないメッセージを送っていた。あれが本心のメッセージ、だとは思うけど、やはりその思考に至る理由が分からない。だから、今の俺にだいの考えは見えて来ない。

 でもこの二人が向かい合ったらどうなるか、それを想像すると、もう悪い考えしか浮かばない。

 そんな脳内に俺は思わずその場にしゃがみ込んだ。

 流石に二人の間で血を流すような争いはないと思うが……刃先がこちらを向く可能性だって十分ある。

 

「か、帰りたくねぇ……」


 一対一なら、なんとかなるメンタルが保つ。でも二人同時にいるとなると、流石にそんな空間には行きたくない。

 そんな考えが脳を占めるが……願望と義務は一致しないのが現実だ。

 当然帰らないなんて選択肢は、あり得ない。


「……だ、大丈夫。だいはレッピーのこと大事な友人だって書いてたし、う、うん。きっと大丈夫さ」


 そんな負の考えが募る頭を誤魔化すように、俺は一人自分に対して大丈夫だと言い聞かせる。

 でも昨日は目の前にいないからだいが言えた言葉も、いざ対面したら違う感情が沸くかもしれない。

 そんな恐怖も拭えない。


「……くっ」


 この自業自得ながらストレスフルな現実に、さっきまでの市原に補習してる時間がまるで天国の時間だったように思えてくる。

 さっきの時間は、何も考えず仕事が出来て楽しかったと言うべきなのかもしれない。

 だが、こんなとこにいても何も問題は解決しない。

 この問題は誰も助けてくれないし、時間が解決してくれるわけでもない。

 俺は誰だ?

 そう、俺は——

 ならば——


「ええい! なるようになる! いや、する!!」


 俺はギュッと拳を握って腹を括り、一刻も早く帰ることを決意する。そしてそのためにやらなければならないことを音速で終わらせるべく、俺はダッシュで職員室へと戻るのだった。







 18時46分、日も落ち夜中と変わらないくらい空も暗かった帰路の途中、俺は煌々と明かりの灯った我が家を目にしていた。

 あの後これまでの自分からは信じられない速度で明日のテストの確認と印刷を終え、学校を出たのが18時10分頃。

 走って東中野駅に向かい、各停の電車に急げよと念じながらたどり着いた高円寺から、俺同様帰路に着く人々の間を縫うように、競歩選手レベルのスピードで俺はここまでやってきた。

 だが、目の前の光景を前に、ここまで来て俺の足が止まってしまう。

 我が家についた明かり、それはそこに人がいる証に他ならない。

 怖くてあの後スマホを見ないで帰ってきたから、今どうなってるかは分からないけど、たぶん我が家には二人、今人がいる状況だろう。

 冷たい風が頬を撫で、耳の感覚が消えていく。

 だが、胸の鼓動は増すばかり。


「……ええいっ」


 死地に赴く戦士とは、きっとこんな気持ちなんだろう。

 そんなある種の悟りを開きながら、俺はまた足を動かす。


「……だよな」


 そして少し歩いて我が家の階段が見えたところで、我が家にいる人の数が確定する。

 だって階段の駐輪スペースには知ってる黒いバイクと、見慣れただいの自転車があったのだから。

 それはつまり、そういうこと。

 どちらかというか、だいが来たことでレッピーが帰ったりしてないかなって少しくらい思ったりしたけれど、その線はこれでなくなった。

 

「……最悪なケースになってなきゃいいけど」


 我が家にいる二人。その二人が争って……なんて想像をまたしてしまったが、自分を奮い立たせるように流石にそれはと首を振る。

 そして意を決して、俺は一歩ずつ階段を登り出す。

 この階段こんなに段差あったかなとか、こんなに一段一段高かったかなとか、重い足取りのせいでそんなことも思ったりするけれど、それでも俺は、この現実に立ち向かうべく、なんとか足を動かし続ける。

 そして辿り着いた我が家の扉の前で。


「あ、鍵持ってないんだった……」


 レッピーに鍵を預けたから、自分の力でその扉を開けられないことを思い出し、そこで一拍深呼吸。

 そして誰が出てくるのか、どんな空気になってるのか、色んな想像をしてから、心の準備をできる限り整えて、震える指でチャイムを押す。

 ピンポーンと鳴る軽やかな音までも、俺を死地に誘う音に聞こえる心地の中、俺が数秒待つと——


「————」

「————」


 中から何かしらの二つの声が聞こえたが、それがなんと言ってるのかまでは聞き取れなかった。

 そしてそこから十数秒待たされてから——


「おかえりなさい」

「え——」


 黒髪美人が一人、俺を迎えた。

 チラッと確認したその顔立ちはラフな黒のパーカーとグレーのスウェットズボンが美しいドレスに見えるほど麗しい、俺の見慣れた顔だった。

 そしてその表情は、俺の帰宅を喜ぶような、そんな柔らかさを見せていた、と思う。

 でも——


「どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔してるけど」

「え、あ、いや——」

「というかさ、帰ってくるなら時間の連絡しなさいよ。準備があるんだから」

「え、あ、じゅ、準備?」

「返事は?」

「あ、は、はい。いや、じゃなくて——」

「何?」


 目の前の表情は笑顔、なんだけど——


「いや、あの——」


 俺の視線が、ドアを開けてもらった時からほとんどずっと、下を向く。

 こんなに美しい顔なのに。

 その顔を見てられない。

 そんな俺に美しい顔は不思議そうな声を出すけれど——


「とりあえず仕事お疲れ様。パパッと準備しちゃうから、先にご飯食べよ?」


 家の中の温もりが流れ、キッチンの換気扇が回る音が聞こえる中、左手で俺の手を掴んで中に引っ張り、固くなった俺の代わりにドアを締め、再度顔を合わせて、だいがにこっと微笑んだ。

 それはおそらく一部を無視して客観的に見れば、彼氏が帰って来て喜ぶ彼女という、とても幸福なシーンにも見えたかもしれない。

 でも——


「あ、あの——」


 俺の視線は、ほとんどその笑顔には向けられないか。

 何故かって?

 さっきのシーンだって、幸福なシーンには見えないだろう。

 何故かって?

 だって——


 だってその右手には……一振りの包丁が握られていたのだから。

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