第423話 掴めない人

「んーと、どういうこと?」


 可愛い顔、引き攣る顔、不思議がる顔。

 そこにあるのは3つの顔。

 だが、不思議がる顔を前にこの話題に踏み込むのは、あまりに危険。

 内容が内容な上に、今この場にいる二人が姉妹という関係性を考えても、この話は聞かせたくない。

 そう判断した俺は、大人としての役割を果たすため、すっと視線を不思議そうな顔を浮かべる市原に向けた。


「そら、ちょっと俺、うみさんと話してくる」

「えっ!? 二人はダメっ」

「いや、大丈夫。お前の心配に及ぶようなことは絶対にない」

「え、うー……」

「むしろ俺は、お前のお姉さんの道を正すために話すんだ」

「え?」

「だからここは大人に任せろ」

「う、うん……わかった!」


 そして、ずっとくっついたままの市原を落ち着いたトーンで説得し、俺の腕が久々に自由を手に入れる。

 誰も話していない時は変わらずシトシトと降り続く雨音が響いているが、今の俺にはそんな雨の音など気にならない。

 それよりも、だ。

 倫理を説く教員として、正さねばならない事案が、目の前にあるのだ。

 抱いた恐怖に、負けてはいられない。


 ということで、俺はうみさんに移動を促し、市原から7,8メートル離れたところで彼女と対峙した。

 そして俺と二人になったところで、うみさんがちょっと甘えるような上目遣いを俺に見せて——


「私の嗜好、ダメですかねぇ?」


 と、まるで悪戯を叱られた子どものような表示を見せるが、もうそんな顔に騙される俺ではない。


「いやいやいや! 何さらっと許されると思ってんですか? ダメでしょその嗜好は!?」

「やー、でも隣の海藻は青く見えるって言うじゃないですか?」

「どこのリトルマーメイドですか!? セバスチャンもびっくりですよ!? というか、海藻だろうが芝だろうが、青く見えちゃダメです!!」

「おお、これが噂の鋭いツッコミ」

「いや、そうじゃなくて!?」

「うーん、でも真面目な話、誰かのものって考えると、なんだかいいなぁって思っちゃうんですよねぇ」

「いや、ですよねぇ、じゃないですよ!? それにそのパターンってあれでしょ!? 自分のものになったら興味無くすパターンでしょ!?」

「おお、よくお分かりで」

「いや分かりたくないですよ!? ああそれもう長続きしないやつばっかじゃないですか……」

「いやいや、これでも2年くらい続いたこともありますよ?」

「え」

「法的には決して私のものにならないってなると、ちょっと燃えますよね?」

「いや同意求めんなっ! ……って、法的?」

「あれ? この前お話しませんでした?」

「いや、記憶には……」

「私が小学校で働いてる時、不倫してた奴がいたって」

「え、あぁ、それは聞きましたけど……え? まさか……?」

「実は相手が私でしたー」

「マジで!?」

「いやはやー。でも、結局校内で噂が広まっちゃって、その状況にテンパってる姿見たら一気に冷めちゃったんですけどねー」

「いや、冷めちゃったって、そんな天気がいいですねぇ、みたいなテンションで言う話じゃないですよ!?」

「やだなぁ倫ちゃん。今日は雨ですよー?」

「ツッコむとこはそこじゃねぇ!」


 捲し立てるようにうみさんとの言葉のキャッチボールが続いたが、あまりの価値観の違いに正直俺は絶句したい気持ちでいっぱいだった。

 たしかに自分が上手くいってない時に、他の人が羨ましく見えることは、人生の中で何度か起こることだろう。

 だがそれでも、人には踏み越えてはならない一線がある。

 それなのに、さらっと自分の不貞行為の経験を話す彼女に、俺は改めて恐怖した。

 あまりにもズレた感覚を前に、何を言えばいいか分からない気持ちにもなる。

 でもとにかく、本当に妹の前で問い詰めなくて良かったと、心の底から実感する。


「ちなみに倫ちゃんのこといいなと思ったのは、この前すごーく里見先生のこと大切にしてるお話しを聞いたからですよ。でも流石に妹の想い人ですから、本当にどうこうしようとは思いませんでしたけど」


 そんなうみさんが、そういえば、というように恐ろしいことをさらっと言ってきたが、当然その言葉を鵜呑みにすることはできなかった。


「いや、さっきの話聞かされて、信じられませんて……」

「やだなぁ。私がその気だったら、この前の夜に会った時、倫ちゃんのお家泊めてもらってましたって」

「マジでっ!?」

「押して引いてを絡めてけばいけそうだなぁとは思いましたもん。だから〈Hideyoshi〉さんにもちゅーされちゃうんですよー」

「いや、え……ってか、今その話出します!?」

「いい感じに隙を見せる人ですよねー、罪作りだなぁ」

「いや俺のせいみたいに言うのやめてくださいよっ!?」


 そしてさらに市原の前でなくてよかったと思うことまで言われて、俺は二人で話したいと切り出した自分の判断を誇りに思った。

 まぁ、妹から離れたからこそ、彼女自身もここまで堂々と話すのだろうが。

 しかし本当、貞操観念とか、そういうのがどうなっているのか全く持ってわからないなこの人……。

 たしかに見た目は可愛いし、見た目がタイプかどうかと言えば、かなりタイプな人ではあるのだが、彼女の話を聞いて改めて人は中身なのだと実感する。


「とりあえず! 俺は人としてうみさんの嗜好は認められません!」

「うーん、ダメですかー?」

「ダメです! さっきだって、高校生の妹にど正論かまされてたじゃないですか!」

「そらはまだ若いから——」

「いや、うみさんの嗜好に年齢は関係ないですよ!」

「うーん」

「というかほんと、そんだけ見た目いいんですからその嗜好やめて幸せ掴もうと思えば掴めるでしょっ」

「おー、さらっと見た目褒めてきますねー。さすが倫ちゃん。でもそれ、ルッキズムですよー?」

「いや、今はそういう話じゃないですから! ……妹のために、そこだけはなんとかしましょうよ。色々不穏な話を知ってても、それでもそらはうみさんのこと好きなわけでしょ? ずっと妹が好きでいてくれるお姉ちゃんでいてあげてくださいよ」


 だが、うみさん=残念な人、で終わらせてしまうわけにはいかないのだ。

 本当は関わりたくないで終わらせたいところなのだが、そうできない理由が俺にはあった。

 市原は俺のクラスの教え子で、頭はちょっと弱くても、素直で明るいいい子なのだから、今の人柄を失わずに、人として健やかに育って欲しいのだ。

 だから、そんな市原の姉が、ちょっと人の道を外れそうというのは、見逃せない。

 そんな思いで俺はうみさんに対して自分の職業を発揮する先生のように注意する

 まぁ俺の方が一つ年上なんだから、人生の先輩としての注意でもあるし。

 そんな俺の言葉を聞いて——


「たしかにそらに嫌われるのは、嫌ですねー」


 少しくらいは、響いているような気がしたのだが——


「分かりました。もう不倫はしませんっ」

「いやそこだけじゃねぇから!?」

「あはは、冗談ですよー。でもこの年になって人に怒られるって、いやはやなかなかない気がしますねー」

「そもそも怒られるようなことをしなきゃいいんです」

「それはごもっとも」

「……本当に伝わってます?」

「あ、信用なさそー」

「その反応じゃそう思われてもしょうがないでしょっ」

「あははー、緊張感なくてごめんなさーい」

「いや、緊張感っつーか……ああ、もうとりあえず、ちゃんとしなきゃダメですよ!?」

「はーい。怒ってくれてありがとうございまーす」


 ……はぁ。

 普段相手にしている高校生の方が、余程話がしやすいし伝わりやすい。

 大人相手にちゃんとしてって、そんなこと言う場面なんて普通ないもんな!

 でもなんだろう、この徒労感。

 反応がこんな感じだったせいで、正直伝わった感の手応えがない。

 いつも愛嬌のある感じでニコニコしているのは、きっと彼女の良さだと思うけれど、それが表面上に過ぎないのから、本質が変わらなければ意味がない。


 ……妹に嫌われたくない、というところだけは、たぶん本音の言葉だったと思うけど。


「でもほんとに、倫ちゃんと里見先生の間に割って入ったりしないので、これからも仲良くしてくださいね?」

「だいはけっこうあなたのこと警戒してますから、なんとも」

「えー、そこをなんとかお願いしますよー。スキル上げ、私も里見先生のカンストまでお付き合いしますからー」

「え、マジで……って、それはそれ、これはこれ!」


 そして、大人同士の会話というか、指導が終わったと思ったのだろう、うみさんからかなり判断に悩む発言がなされたが、俺はそれを簡単には受け入れないという形の答えを返した。

 そんな形で、彼女との話が決着する。


 さて、ではとりあえずだいたいの話は付けたから、じゃあ市原の方に戻るか。


 ということで、俺はうみさんを連れ立って再び一人待たせる形となっていた制服姿の女子高生の方へ移動して——


「待たせたな」


 と、声をかけると。


「怒られてきちゃった」


 と、うみさんが笑い——


「当然だよっ」


 と、市原が俺の腕に戻ってきながら、少し頬を膨らませる。

 しかし、こいつさも当然と言わんばかりにまた俺の腕に抱きついてきたけど、え、俺に対する怒りの感情はどこいったの……?


 その疑問が残っていたので、戻ってきて早々にに——


「あのさ、そら」

「うん?」

「今更掘り返すのもなんなんだけど、その、俺、お前のこと怒らせた……よな?」

「あ」


 この話から逃げるのは、人として許されないから。

 うみさんとの話を一区切りし、俺は騙す形となっていた市原と向き合うことを決意する。

 恐る恐る、そんな風に話しかける俺をよそに、けろっとした顔をした市原は、そういえば、というように、完全に忘れていた話を思い出すような顔を見せるのだった。

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