第587話 久々の二人きり

 何かが触れる感じがして、俺はゆっくりと目を開ける。

 この目に入ったのは、大部分が黒だった。

 でもそれを認識出来るのは、当然周りが明るいから。

 えっと……今日は……。


 思い出す。今日は11月28日の土曜日。時刻は……何時だろう?

 室内に強く差し込む明るさが、まだ夕刻ではないだろうということを知らせてくれる、そんな光がある中で、どうやら俺は目を覚ましたようだ。

 目を覚ましたということは、つまり寝てしまっていたようだが、目を開いて明るさを感じた俺の視界に広がっていたのは、さらさらとした黒い髪の毛だった。

 そして同時に感じた腕の重み。その意味に気づいて俺は「あ」と、ささやかな幸せを覚える。

 いつ寝てしまったのかは正直覚えていないが、たしかずっとだいの頭を撫でているうちに眠くなってきて、少しだけと横になった記憶はある。

 その時のだいは仰向けのまま、だったはずなんだけど……本能的、だったら嬉しいかな。どうやら俺を察して寄り添うようにくっついてきてくれたらしい。

 桃色のニットワンピースに身を包んで俺にくっついてくる姿は、まるで天使。

 そんなだいが愛しくて、俺はギュッとだいを抱きしめるように身体を動かし、もう片方の腕を彼女に回す。

 すると——


「……ん」


 抱きしめられるのを感じたのか、小さく、ほんの小さく聞こえた声は、まるで子どものように可愛い声だった。

 

 これは俺だけが聞ける声。

 俺にしか聞かせないだいの声。

 そんな声に、ふっと自分の頬が緩む。


 可愛いな。


 もう何回この言葉を思い、彼女に伝えたのだろう?

 数えきれないほど、そう簡単に言ってしまえるほど、ほんとにそれくらいの数この気持ちを抱き、彼女を愛おしく思ったのは嘘ではない。

 そう思いながらまた彼女の髪を撫でていると。


「……んー」

 

 俺の腕の中に抱かれていた彼女の頭が、ゆっくりゆっくりと動き出す。そしてさらにゆっくりこちらに向かって顔を上げ、さらにスローモーションの如きスピードで彼女の瞼が半分ほど開いていく。


「おはよ」


 そんなまだ半目の彼女に、俺は優しく笑いかけながら歓迎の意を示す。

 おでこの辺りの赤さも、ぶつけた時よりは少しだけ薄くなってるような、そんな気がした。


「……ん」


 俺の挨拶に返してきた言葉……というか音は、その可愛い顔についた唇をほとんど動かさずに伝えられたが、それでも小さく頷く姿が目に入る。

 表情はまだぼーっとしていて、頭は働いてなさそうだ。

 でもこうなる前、うちに帰ってきた時の俺を完全無視してくれた時の恐ろしさとか、さっき電話で聞いた話にあった不安そうにしてる感じとか、そういう感じはなさそうだ。

 なんというか……休日に目覚ましなしで目を覚ました時に隣に俺がいた的な、そんな気分なんだろうなって感じである。

 つまりまぁ、付き合ってから何回も見てきた様子がそこにはあった。


「おでこのとこ、痛いとかないか?」

「ん」

「そかそか。よかった」

「ん」


 触って押したりすればまだ痛いだろうが、とりあえず大丈夫そうだなと思って尋ねた俺に返ってきた音とこちらに合わせてきた視線が、徐々にだいの意識がハッキリしていくのを教えてくれた。

 でもまだ話すのは面倒で動くのもだるい、とはいえ離れるのはヤダ。たぶんそんなモードなんだろう。

 しかしほんと、子どもみたいだなぁ。

 

 愛おしい存在にそんなことを思いつつ、俺は何を尋ねるかを考えてから——


「二日酔いで頭痛いとかもないか?」

「んー……」

「ちょっと痛いか。水飲むか?」

「ん」

「おけ。じゃあ取ってくるな」

「んん」

「あ、まだくっついてたい?」

「ん」

「そかそか」

「ん」

「うん。……昨日はごめんな。色々不安にさせちゃったみたいで」

「ん」

「でも今は俺と二人だよ」

「ん」

「安心した?」

「ん」

「だいが不安なること、もうしないから」

「ん」

「約束する」

「ん」

「でもロキロキを怒んないでやってな? なんていうかさ、弟みたいな感じなだけだからさ」

「ん」

「俺にとって大事な人はだいだから」

「ん」


 簡単に答えられそうな言葉を紡いで、この短く返ってくる音と言葉を交わす。

 そして会話を交わすほどに、だいの表情のボーッとした感じはだいぶ消えていった。

 ってか、これはもうアレだな。


「なぁ」

「ん?」

「もうその返事、わざとだろ」

「ん」

「おい」

「あ」


 その音の変化に俺は思わず笑ってしまう。

 テンポのいい会話の流れの中、俺の誘導尋問的な問いかけにだいは見事に引っかかったわけである。

 一瞬しまったと目を見開いて、そしてわざとらしく視線を外す。けれども時折チラッチラッとこちらを窺いながら、バツの悪そうな子どものような表情を浮かべている。

 それはあからさまなわざとらしさを感じさせたのだが——

 

 ……なんだこの可愛い生き物は!!


 そんな気持ちが止まらない。

 だから俺はベッドの上で横になったまま、ギュッと抱きしめる腕に力を込めた。

 それに合わせてだいは俺の胸の中に顔をうずめて、もうほぼ0距離だというのに、それ以上距離を詰めようとするような、そんな動きを見せてきた。


 しばらくそのまま、ギューってする俺と俺にくっついてくるだいとの間で互いに力を込め合うという、世界一平和な争いが続いた。

 そして。


「あ」

「ん?」


 何か思い出したように、だいが少しだけ離れてこちらに顔を向けてきたから、俺は抱きしめる力を弱めた。


「ロキロキとチューしたのはやだ」

「いや、それ俺は知らないんだけど……」


 そしてその思い出された言葉に、俺は苦笑いを浮かべるも——


「やだ」


 ズバっと切り返されてしまう。

 とはいえ——


「いや——」

「やだ」

「ああ、うん、わかった。ごめん。気をつける」


 そんな頬を膨らませるだいに、俺は観念して言い訳をやめ、その言い分を受け入れた。

 すると——


「うん。でも私も冷たくしてごめんね」


 今度はしおらしい表情に変化して謝罪の言葉を告げられた。


「あ、覚えてるの?」


 その言葉は、正直俺には意外だった。

 だってあの時のだいは相当酔ってそうな感じだったというか、あの行動は……理性的な振る舞いとは思えなかったから。

 正直相当ぶっ飛んでた、んだけど——


「うん。何となくだけどぷいってしてたのとかはちょっと覚えてる」

「いや、ぷいっなんてもんじゃなかったけど?」

「そうだった?」

「マジマジ。めっちゃ怖かった」

「うーん、あんまり覚えてないけど、それならごめんね」


 でもどうやら残ってる記憶と実際の振る舞いには乖離があるようで、俺はだいの名誉のためにもあえて追求するのはやめといた。

 思い出したらな、たぶん相当恥ずかしいだろうからな。


「いや、でも俺が色々心配かけたからこうなったわけでもあるから、やっぱごめん」


 ってことで、俺はあえての追求をやめ、俺が悪かったから今回のことが起きたんだよと改めて謝ったのだが——


「ん。じゃあお互いごめんだね」

「んー、そっか」


 だいからも謝られてしまったわけである。

 とはいえここでいやいや俺が、なんて伝えても意味がないことは分かってる。

 だから返す言葉は簡単にしておいた。

 その代わりに、俺はだいをじっと見つめた。

 すると——


「ん、じゃあ仲直りしよ?」

「うん。分かった」


 この言葉、ちょっと予想していたってのはここだけの秘密。

 そんなだいの提案に俺は素直に頷いて、そっと優しく、だいと仲直りのキスを交わすのだった。

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