第425話 ここにだけ降る雨

「本当ですよねー、里見先生でよかったですよー」

「……っく!」


 妹の言葉を受け、露骨にいじってくるうみさんに、俺は苦し紛れの睨みを送るが、そんなもの彼女には何の効果もない。

 というか今は市原を相手にせねばならないのだから、そちらに構っている暇もない。


 正直この話には、大きなリスクは伴わない。

 伴うのは、純然たる俺の羞恥心のみ。

 ただそれだけならむしろ気楽に臨めばいい、きっと誰もがそう思うだろう。


 だが考えてみて欲しい。

 教え子に、彼女が付けたキスマークについていじられるのは、これはなかなか過酷だぞ?

 しかもちゃんとしたいじりならまだしも、天然物の肯定だ。

 これは真っ向から受け止める以外の選択肢がないからこそ、かなりきつい。


「里見先生じゃなかったらどうしようって、ほんとドキドキだったんだよっ」

「い、いや、俺はほら、一途な男だから……」

「そうだよね! 倫ちゃんが浮気なんかするはずないもんね!」

「当たり前だろ……」


 あの日見られてしまった事実は消せない。

 そのことが、俺自身の内心をかき乱す。

 いっそ今日の雨で全部流れてくれればいいのに。……全部はさすがに欲張り過ぎ、か。


「里見先生、恥ずかしくてつい『私じゃない』って言っちゃったみたいだけど、やっぱり自分だったんだねっ」


 そしてこんなことを笑顔で教えてくれる市原さん。

 ええ、そんなこともちろん百も承知ですよ。


「あ、あの、市原さん?」

「なーに? って、あっ! そらっ!」

「あ、はい。そらさん」

「さんはいらないー。でもどしたの倫ちゃん?」

「あ、いやー、そのね。里見先生から、どんな風に言われたの……?」


 このままでは俺のライフが保たないから。

 俺は向かい合いたくない現実に何とか目を向けて、だいが市原へどんな話をしたのかを聞いてみた。

 そんな俺に向けられた市原の表情は、もうすっかり試合中のことなど、欠片も引き摺ってないように見えた。


「えっとね、昨日倫ちゃんと喧嘩して、その原因の一部がお姉ちゃんで、怒った里見先生が倫ちゃんに襲いかかった、的なことを聞いたよっ!」

「襲っ!?!?!?!?」

「わーおっ」


 襲いかかったじゃなくて、お仕置きされただよー、なんてツッコミが浮かぶはずもなく、俺の頭には、あの馬鹿っ!!! という感情が瞬間的に沸騰する。

 そんな俺とは対照的な活き活きした表情の市原のとんでもない答えに、俺は絶句し、うみさんが楽しそうに驚く。

 喧嘩になった原因の一部がうみさんというところまでは、まだいい。

 なのにだから襲いかかったって、子どもに言う話じゃねぇだろおい!

 どんなコミュ障だよあいつ……!


 もちろん生徒たちを更衣室に連れて行ってもらった時のだいの様子は知っている。

 だからといって、まさかここまでとは思わなかった。

 これはもう、逃げも隠れも出来やしない。

 共犯者として、共に認めるしかないではないか。


「はぁ……そこまで聞いたなら、もう全てだな。うん、里見先生が言った通り、これはあいつに付けられた跡なのは、間違いない。それで、俺もあいつも、変に隠そうとして悪かった」


 だから、腹を括って俺はだいの話を肯定し、改めて市原に謝った。

 もうすでに市原の中では許す許さないの話ではなくなっていたとしても、ちゃんと謝らなければならないと、そう思ったから。

 それを聞いて市原は——


「ちゃんと仲直りしたんでしょ?」

「え……それは、うん。した」

「うんっ。ならそれでいいよっ。むしろお姉ちゃんのせいで倫ちゃんと里見先生の仲が悪くなっちゃう方が嫌だもん」


 と、素直な笑顔を俺に向ける。

 その笑顔に、俺は自分の色んなものが、恥ずかしくて情けなくなる。


 ああもう、こいつは……。


「ふぇ!?」


 その後とった俺の行動は、ほとんど無意識の反応だった。

 そんな俺の動きに、市原が慌てた声を出すが、気にしない。


「だ、ダメだよっ。私、1回戦も勝ち上がれなかったダメピッチャーだよっ!?」


 そういえば確かにこれは、もっと勝ち上がらないとしてあげないってことになっていた行動だ。

 そのせいか少し慌てたように市原は言ってくるけど、俺は構わず市原の頭をぐしぐしと撫で続けた。


「ダメピッチャーじゃねぇよ」

「り、倫ちゃん……」

「お前がダメピッチャーなわけあるもんか。お前は最高のピッチャーだよ」


 普段だったら絶対しないけど、今ばかりはこれくらい、してあげたかった。

 これだけで許されるとか、そんな話ではないけれど。

 こいつの気持ちを知っていて、これがされて嬉しいことだって分かっているからこそしてあげるのが、ずるいことだとしても、俺は市原の頭を撫でて慰めたくてしかたなかったのだ。

 

「勝てる試合だった。そらが黒百合相手にどれくらい通用するのか見たかった。それなのに、勝たせてやれなかった」

「……うん」

「大人のせいで振り回して、負け投手にしちまって悪かった。本当に、ごめん」


 そして、俺もようやく湧き上がってきた身に詰まる思いを解き放つように、嘘偽りなく、心からの謝罪を込めて、俺は市原に謝った。

 負けたのは俺たち大人のせい。

 こんな負け方、あっていいはずがない。


 そんな俺の言葉を聞いた市原の顔が、焦ったものから少しずつ崩れ、その目が、少しずつ潤んでいき——


「……ちた……った……!」

「うん、そうだよな」


 俺の解き放った気持ちを受け、今ようやくこいつは、今日の敗戦と正面から向き合えたのだろう。

 6回までは素晴らしいピッチングだった。誰もが勝ちを信じて疑わなかっただろう。

 それが最終回、乱された。乱れた、ではない、乱されたのだ。

 そして、負けた。

 でも、その負けにすら、心の引っかかりによって向き合えていなかった。

 心が余計な回り道をさせられて、関係ないところに気を取られ、試合そのものからすら、目を離させられてしまっていた。

 そんなこいつの気持ちを、元に戻す。


 選手たちはよく戦った。

 責任は全て、監督にある。


「勝ちたかったよぅ……!」


 そして俺の目から、市原の表情が見えなくなる。

 俺の腕に抱きついていた姿勢から、今度は俺の胸に両手の拳を当てて顔をうずめ、俯き出す。

 濡れたユニフォームから着替え、乾いていたはずの服が、濡れていく。

 ここにだけしとしとと降り続く雨が当たっているかのように、じわじわと、濡れていく。

 そんな市原の頭を俺はポンポンと何度も優しく撫でた。


「勝たせてやるのが俺の役目なのに、ごめんな」


 その後はもう、言葉にならない嗚咽が、しばらく続いた。

 そんな妹の姿を、すぐそばに立つ姉は黙って見守ってくれた。

 

 俺の胸中には、当然後悔しかない。

 こんなに一生懸命な子の努力を、報わせてあげられないなんて、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 こんなこと、もう二度とあってはいけない。

 その思いが、俺の胸中を占めていく。


 現在高2の市原と戦える大会は、あと3つ。

 来年の春の大会と、インターハイ予選と、公立校大会。

 あと3つが終われば、もうこいつと戦える大会は、ないのだ。


「次こそお前と、もっと上にいくからな」

「……うん……っ」


 俺が呟いたその言葉は、自分への戒め。

 信じてくれる生徒の気持ちに応えられないで、何が教師か。

 市原に、こんな惨めな思いはもうさせない。

 来春に向けたリベンジの炎が、俺の中で強く燃え上がるのだった。


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