第474話 油断と罪悪感

 どうして俺はここにいる?


 その思考が先ほどから止まらない。


 ついさっきまで会話の主導権は俺にあったのに、どうして今、ここにいる?


 そんな疑問が拭えない。


 静寂を切り裂くのは水の音。何処から生まれ、流れていく音。

 何のBGMもない室内には、ただただその音が響くのみ。

 その音のそばにいる人物については、今は思考を放棄する。


 腰掛けているベッドは広く、優に二人は寝られる大きさだった。

 そりゃそうだ、二人で寝る用のものなんだから。

 やや薄暗い照明に照らされる丁寧に敷かれたシーツも、並べられた二つの枕も、否が応にも俺がどこにいるかを示してくるのが鬱陶しい。


 だからこそ俺はもう一度自分に問う。


 どうしてこうなった、と。


「……入るとこ、誰にも撮られたりしてないよな……」


 ここに入った時の時刻は午前4時。

 やって来た時にさすがに周囲に人影はなく、監視していると思われる人物を除いて誰にも見られていないとは思う。

 だが場所が場所なだけに、内心の緊張感と罪悪感がエグいのだ。

 こういう場所に来るの、いつぶりだ?

 自分の心にのし掛かる余計な感情を打ち消すように、俺は自分の記憶に問いかける。

 だいと来たことなんかもちろんない。

 その前の人とも……一度もない。

 そりゃ一人暮らししてるんだし、来る必要性がないもんな。

 でも記憶に問いかけた「いつぶり」という言葉から分かる通り、これまでに来たことがないわけでもない。


 ……東京来てからだと初めて、か……。


 そこでどんなことをしたかなんてそんな細かい記憶はないが、たしかに地元にいた頃、まだ高校生のくせに変に背伸びして利用した記憶はある。

 そして半ば自暴自棄になりかけた時に、クラスメイトと入った記憶も——


「よくないよくないっ」


 辛うじて許される1回目の記憶に次いで思い起こされた2回目の記憶を、俺は全力で頭を振って否定する。

 付き合ってない人と来た記憶なんか、間違っても今思い出す記憶ではないのだから。


「大丈夫、落ち着け。変に焦るからいけないんだ。そうだよ、これは作戦。作戦の一環だ。不適切なことなんて何もない……」


 記憶すら敵に回りかけた状況の中、俺は改めて今置かれている状況の正当化を試みた。

 そして落ち着きを取り戻すべく、愛する彼女の写真でも見ようとスマホのカメラロールを開き——


「っ!?」


 目に入った写真を前に、俺は画面を下に自分のスマホをベッドに叩きつけた。

 だがその写真の影響が、如実に身体に現れ出す。

 何の写真が見えたかって、居酒屋の時に撮った……いや、撮らされた写真だよ。

 その写真の中ではゆめが扇情的な表情であーんをする、とみせかけて舌を伸ばしている姿が写っていて……今の状況も合わさって、俺の反応を促すには十二分な力を持った写真だったのだ。

 

 いかん、これはいかん!

 今出てこられたら完全に誤解される、無だ。無になるんだ……!


 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空……。


 そう決めてベッドに背中から倒れ込み目を閉じ、心に魔法の言葉般若心経を唱える俺。

 心を整えろ、整えろ、整えろ……。


 そうやって自分に言い聞かせ、ふっと、気づく。

 あー、この姿勢心地良い……そりゃそうだよな……カラオケ屋で気を失ってた時以外、昨日の朝からずーっと起きてんだもんな。

 ……いかん、この自覚をしたら……。


 振り返ってみれば「眠い」と自覚してしまった段階で負けだったんだと思う。

 だが、その自覚とベッドの心地よさは怒涛のように俺の意識を奪わんと絶え間ない攻撃をしかけてくるようで——


 心を整えるのが、結果的に出来たのかもしれないぎ、室内にシャワーの音が響く中、俺は意識を投げ出すのだった。










 ……んっ。

 なんか……そわそわする……。

 

 どこか分からないふわふわした世界の中で俺は薄っすら目を開く。


 えっ!?


 そこで目にした、下腹部のあたりに見えた誰かの黒髪の頭頂部。

 ふわふわした感覚の中、ただそれだけが俺の視界に入ったのだ。

 そしてその誰かの頭が、仰向けになった俺の腹部側から天井側、天井側から腹部側とテンポ良く上下し、その上下の度に俺自身の感覚を昂らせてくる。


「えっ、なんっ!?」


 全く分からない状況なのに、押し寄せる感覚は途切れなくて——


「ちょっ、まっ——!」

 

 その昂りを生み出すものを止めようとするも、なぜか俺は手を伸ばそうとしても出来なくて——


「んっ……!」


 昂りに抗うこともできず、呆気なく、果てた。


 その瞬間俺の下腹部あたりにあった顔が一度驚いたように動きを止めたが、しばらく動きを止めた後、ゆっくりと頭を上げてこちらに顔を向け——


 口元を何かでテカらせながら、可愛らしいたれ目を細くさせて、ニコッと笑ったのだった。










「なっ!!!!?」


 起き上がり、まず感じたのは全身にぐっしょりかいた汗だった。

 その汗のせいで、軽く効いた冷房すら、やたらと寒さを感じさせた。

 だが、そんなひどい寝汗にも関わらず、俺は今の今まで見ていた、いや、見てしまった夢に頭を抱えた。 


 ……なんて夢見てんだよ俺……!


 その夢の内容は、生々しいほどハッキリ思い出せた。

 いい夢か悪夢かで言ったらどちらとは言えないが、こんなに罪悪感を抱く夢もない。

 

 ……あの写真のせいだ……!


 そしてハッとしながら、俺は意識を失う前に叩きつけたはずのスマホを探すが、あると思った場所にそれはなく、何故か少し離れたテーブルの上にそれは置いてあった。

 そしてそれを取ろうとして身体を動かし——


「……マジかよ……」


 自分の下腹部に対し、パンツから感じたべっとりした不快感に、俺は自分への嫌悪感を募らせた。

 いや、たしかにそんな夢だったけど……。


「って! ゆめは!?」


 そこでさらにハッとして、俺は室内に俺以外誰かいないのかを探してみたが、そこには誰もいなかった。

 意識を失う前に抱えていたシャワーの音も、当然既に聞こえない。

 そして不快感を堪えながらスマホで時間を確認すれば、現在時刻は午前5時17分。

 

 1時間以上寝てたのか!


 冷静に考えればよく1時間で起きたって話なのだが、今はそんなことは言っていられない。

 そんな焦りを抱きながら、居ないとは思いつつも風呂場を確認するが、当然そこには誰の姿もない。あったのはそう遠くない時間に誰かがシャワーを使った痕跡と、なぜかご丁寧にお湯が貯められた浴槽だ。

 

 何でこんな用意してんだよ!

 と、一人脳内でツッコミつつ、改めてスマホに目を落とせば、どうやらいくつか通知がきていた。

 それを確認すれば。


田村大和>北条倫『遅くないか?大丈夫か?』04:15

田村大和>北条倫『不在着信』04:20

山村愛理>北条倫『ゆめからも返事ないんだけど、ゼロやん大丈夫か?』04:30

平澤夢華>北条倫『合流はせんかんちで〜。寝過ごしちゃったら、延長料金はよろしくね〜』04:57


 と、ゆめだけでなく、大和やぴょんからの通知も来ていたようだった。

 ゆめからの通知は今から20分前……くそっ! 20分あったら大和んちあたりまで戻れちまうじゃねぇか!


 その事実に俺はどうしたものかと無駄に右往左往してしまうが、それで何かが変わるわけでもなく——


「ええいっ!!」


 一度頭と身体をスッキリさせるため、ご丁寧に貯められていた浴槽に服を全部脱いで頭から飛び込み、ぬるめのお湯の中で髪と顔をわしゃわしゃし、30秒ほどで風呂を出た。

 烏の行水もいいとこだが、これだけでも十分身体はサッパリしたし、俺の頭をクリアにするには十分だ。

 そしてタオルで全身を拭き、ここに来る前のホテルで買った下着を身に付け、先ほど脱いだばかりの服に再び袖を通し、汚れた下着をゴミ箱に突っ込んで——


「待ってろゆめ!」


 あれこれ考えるのは、いったんここでやめにする。

 そう決めて、入って来た時は二人だったホテルを一人でチェックアウトし、俺はまだ暗がりの街を大和の家方面目指して駆け出した。


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