第616話 ふざける奴なのは知ってるけど
学校を出て、完全に日が落ちた夜を一人歩く。だがこの足が向かうのは、いつもの目的地たる東中野駅ではない。普段は学校を出て東の方角に真っ直ぐ進むのだが、今俺が向かうのは南東だった。
時刻は18時37分。19時頃と言われた約束だったが、予定より少し早いのはレッピーが頑張ってくれたからなのだろうか。
街灯や車道を走る車、建物たちの光に照らされる夜道は人が歩くには事欠かない光量を保持し、空を見上げなければ月の存在を感じないほどに明るいが、何気なく見上げた夜空に浮かぶ三日月は、昨日ちょいちょい魅了されかけた、楽しそうに口角を上げて笑うレッピーの笑顔のようだった。
……いや、キモいキモい! 何考えとんねん! なしなし!
ごほんっ。
え、えーと、気を取り直して……あ、そうそう。さっき学校にいた時に届いたレッピーから連絡は、それはもうものすごーく端的だったのだよ。
『十分後
たった6文字。
そう、実にこれだけのメッセージが俺に向かって送られてきたわけである。
ちなみに目的地は駅からは割とすぐでも、うちの学校からも遠いというわけではないが、なんだかんだ徒歩で7〜8分かかる距離だったので、俺は笹戸先生へ唐突に「お先に!」を言わなきゃいけなくなったわけなのだ。
まぁ人に優先順位を付けるわけじゃないが、昔からの付き合いもあるし、レッピーとの約束が先約だったわけだからな。俺が足早に学校を出たのは道理に外れていないだろう。
そんなことを考えながら、少しそわそわした気持ちで道中の赤信号で俺は足を止める。そして目の前の大通りでは多くの車が行き交い、俺と同じく信号を待つ人々の多くがスマートフォンに目を落とす光景を目にしながら、ふと思った。
……あれ? なんでそわそわ?
俺、そんなに早く会いた……いやいや。これはラーメン欲。そう、ラーメン欲だ。違いない。
だって仕事終わりでお腹すいてるし。
あそこのラーメンマジ美味いし。
さっきも変なことを考えたが、またしても変なことを思い始めた頭に俺は一人首を振る。きっと急に首を振った奴を周りの人々は「何だ?」と思ったかもしれないが、そんな思考は一瞬だし、あと数秒したら俺のことなんかみんな意識の外にいく。
だから、大丈夫。
色んなことに「大丈夫」と思い込んで、俺は青と見せかけて明らかに緑に光る信号を確認し、駅が近くなったからか行き交う人が増えてきた道のりを再び歩き出す。
しかしあれだね、駅から街中へと帰路に着く人の足取りは軽く、駅に向かう人は足早だ。毎日見る光景だけど、何故最寄駅ってこんなにホーム感があるんだろう?
さっきまでの謎の考え事を浮かべないよう、今度は人間の帰巣本能的なことについて思案しながら目的地を目指してみたのだが——
「だーれだっ」
「っ!?!?」
再び信号に捕まって立ち止まった時、俺の視界が今日2度目となる暗転をした。それと同時に感じた目の当たりのひんやりとした冷たい感触と、何より耳に入った高く可愛い声。
え、誰だ? なんてことは思わない。
この声を出せるのは——
そう、すぐ浮かんだ顔は一つだけ。
でもその人物がまさか、こんな——ついさっきもどっかの誰かさんがやってきたことと同じことをかましてくる想像がつかなくて、俺は困惑の中もしかして別人じゃないかと考えようとするが、結局誰も出てこなくて——
「いい大人が変なことすんなっ」
この間違いようのない声は、どう考えても一人しかいないだろうと、俺は自分の目を覆うように背後から回されたそのひんやりとした手に自分の両手を重ねて掴み、その手を下げさせながら顔だけ振り返ってビシッと注意をくれてやった、のだが——
「おててあったかーいっ」
「っ!?」
復活した視界の先にいた奴は、俺の怒り気味の言葉を食らった様子など微塵も見せずくりっとした可愛い瞳を線のように細め、空に浮かぶ三日月のように口角を上げた、はたから見たら可愛くて素直な子がそれはもう楽しそうな笑顔を炸裂させていた。
そしてその姿に俺は不覚にも再び絶句する。
「何キャラだよ」なんて言葉も出てこない。
いやだって可愛……いやいやいや! あかん。あかんて。これ昨日と同じ流れになりかねんやん。しかもこれ明らかに明らかな罠やん。いやむしろ分かってても可愛いってえぐいけど、そこに引っ掛かったら負けやって。堂々と! 堂々といけ俺……!
そして刹那の間合いで謎の似非関西弁思考を展開してから、15度くらいの絶妙な角度で傾けられた目の前の可愛い笑顔に怯まないよう、無理矢理表情を作りながら——
「どこのお嬢様だおい?」
と、俺は一欠片も食らってないぞとアピールするように、じとっとした目で少しため息混じり言葉を吐くが——
「えへへー。ダメ?」
掴まれた手を振り解くこともなく俺に掴まれたまま、顔の傾きそのままにわざとらしい上目遣いを返されて——
「————っ!」
そのシンプルな反撃に、俺は堪らず前を向く。
シンプルイズベスト。結局破壊力が高いのは笑顔や上目遣いとかのシンプルな仕草なのだ。
もうこの段階で俺に勝ちはないだろう、そんなことを思った直後、俺の反応に満足したのか——
「はいアタシの勝ちー」
声質は変わらないままに、急に別人格のような言葉を放たれて、俺は心の中で「くっ」となる。そして掴んでた華奢な手を捨てるように離してから、180度反転して振り返った。
当然そこにあったのは予想通りのドヤ顔で、その姿に悔しさと、ちょっとした安心感を覚えながら——
「一体なんの真似だよおい」
と、ここまでの感情を見透かされないように憎まれ口をたたいてみるが——
「決まってんだろ。仕事で疲れた社会人の心に可愛さという癒しを届けようかなって優しさだよ」
「分かるわけねーだろ! つーか求めてねーよっ」
案の定効果はなしというか、むしろ堂々と褒め言葉みたいな受け取り方をされて、俺は結局ビシッとツッコむ羽目になった。
「いやいや。よく考えてみろって? 今のアタシたちのやりとり、何も知らねー奴からしたらただの幸せそうなカップルだったろ? ああ微笑ましいなぁってなるやつだろ? 目にすればハッピーだろ? ほら。一日一善のナイス
「いや誰もそんな風に見てないっつーか、むしろあんなんただただ嫉妬されて僻まれ……じゃないじゃない! いや何でもない!」
さりとてさすがレッピー。さらなるとんでも理論をかまされて、俺はそれに危うく思ったままに……じゃなくて意味不明なツッコミを言いかけて、慌てて取り繕ろうとしたのだが——
「おやおやー?」
30秒くらいストップを言わないラクレットの如く、これでもかとニヤニヤした顔が俺の前に浮かんでいる。
その表情は1戦5分くらいかかる相手からドロップ率50%のアイテムが10連チャンノードロップ、ってぐらいのイライラを与えてきたのだが、俺はこの表情がさっき言いかけた己の失言が故だと分かっていたから、ぷいっと顔を背けて受け流しを決め込んだ。
いや、分かってる。夜だからバレてないと思うが、今俺自分の顔が熱いのだ。耳まで赤くなってるのが、きっと昼間だったらバレていただろう。
しかしここは誤魔化すしかない。
そう決め込んで、俺はしばらくレッピーから顔を背けていたのだが——
「ま、あれだな」
ぽすっと、自分の胸の辺りに何かが当たる感触と共に、可愛らしくも落ち着いたトーンの声が耳に入り——
「今日一日仕事おつかれ。とりあえずラーメン食い行こうぜ?」
ふざけるのはここまでだなと言わんばかりに、ここまでのくだりなんかなかったかのように白い歯を見せてニッと笑うレッピーが、俺の胸に拳を当てながらそう言ってきて——
「……はぁ。そうだな。うん、そっちもおつかれ」
やれやれと、そう思う気持ちを抱きつつも、俺は一歩下がってレッピーの拳に自分の拳を合わせてちょっとだけ一緒に軽く笑い、俺たちはなんだかんだ2回くらいやり過ごした信号を渡って、いざ目的地へと向かうのだった。
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