第416話 全てを忘れるその瞬間

「プレイ!」


 ドキドキドキドキ。

 最終回でもないのに、心臓の鼓動がやたらと煩い。雨に打たれているはずなのに、何だか顔が熱い。

 だが、そんな緊張を勘付かれないように、俺はポーカーフェイスに努めながら、俺は6回裏の守備を見守った。

 先頭バッターは9番。

 とりあえずまずは先頭を切って、1アウトでさっき打たれた1番バッターに回したいところ、なのだが——


「ご、ごめんなさいっ!」


 ストライク、ボールと投じた後の3球目、インコースを狙ったボールコントロールがずれたのか、バッターはピッチャーに背中を向けて避けようとしたものの、ボールが腰辺りに当たってデッドボール。

 それを見た俺の感想としては、巧いな、である。

 本当に避けるんだったらバッターボックスから外れるように飛び退けばいいのに、あれは見事な当たり方だった。だから、上手く当たられた、というのが監督としての正直な見立て。

 しかし当ててしまって当の本人は心から申し訳なさそうな顔をして、帽子を取って一塁ベースに向かう相手選手に頭を下げていた。

 当ててしまったのはしょうがないが、これでノーアウト1塁。

 何となく嫌な雰囲気が漂いだす空気感に、それを市原も感じたのだろう、ちらっと俺の方を見てきたので。


「大丈夫だって。お前はうちのエースだ! 一個ずつ打ち取れば大丈夫だからな!」


 と、安心させるように、内心の変な緊張感を押し殺しながら、俺は市原に笑顔でそう伝えた。

 やることは、市原だって分かっているのはずだ。それでもこちらを見てきたところに、市原の緊張感が伝わった。

 市原だって当然、緊張するし不安にもなる。

 でもそれは、チームメイトにはなかなか出せない面もあるだろう。

 あいつは星見台唯一の2年生で、チーム全体として見ても、全員から頼られる側で、大黒柱キャプテンなのだから。

 だからこそ、市原がが頼るとしたら俺なのだろう。

 まぁあいつの場合、他に同級生がいたとしても、俺の方を見るだろうけどな……!


 そんなことを考えつつ、きっとこれで市原が一呼吸入れられる、と思ったのだが……なぜか頷いた後もじっとこちらを見てくる市原さん。

 ……え、なんだ? なんでそんなに見るんだ……?


 その表情は、ランナーを出したことへの不安でも、俺の言葉を受けての安心感でもなく、俺の疑心暗鬼かもしれないが,何かを探るかのような、今この状況でする表情ではないように見えた。


 ……え、まさか……!?

 たしかにあいつの視力はマサイ族並だけど……!?


 とはいえ、そんなずっと見ていたわけではなく、俺の方を見ていたのはほんの数秒のことだったのだが……普段コートの襟を立てたりなんかしないので、変な緊張感を消し去ることは出来なかった。

 

 市原の視線から外れてから、果たして俺は何と戦っているのだと、自嘲気味に小さく苦笑いしつつ、三度目となる一番バッターとの対決に目を移す。

 ここまでの佐竹先生の采配を考えれば、たぶんランナーを進めてくるだろう。

 そう思って見ていると——


 キンッ! と鋭い音と共に、ライト前に打球が転がっていき、ライトの南川さんが捕球して一塁に投げるも、一塁セーフのライト前ヒットを放たれた。

 先程ストレートを打たれたからか、カウントを取るドロップボールから入ったバッテリーだったが、どうやらそれを狙っていたらしい。

 いや、きっと国見さんもバントしてくるんじゃないかと思ったのかもしれないな。

 とはいえ全ては結果論。打たれた事実は変わらない。


「そら! ギア上げてけ!」

「おっけい!」


 打たれてちょっとだけ「むぅ」と顔をしかめた市原を、俺の一声で切り替えさせる。

 今度は俺の方を見たりしなかったので、どこかホッとした心地になったのは俺だけの秘密。

 そして対峙する2番バッターは、どうせバントだろうと判断したのだろう。

 ほぼ真ん中にストレートを投げ込んで、綺麗にサード前に転がしてもらい、三塁フォースアウトを狙ったりせず、三宅さんが綺麗に捌いて一塁ベースカバーに入った木本に送球を送り、きっちりアウトを取る。

 練商のランナーもストライクと判断したからか少し早めにスタートを切っていたあたり、しっかり練習を積んでいるのは見てとれた。


「スクイズ来ると思うか?」

「うん、やって来そうな気はする。でもストライクゴーのエンドランもありそう」

「ふむ。回が回だし、まずは確実に点を取りに来るよな」

「うん、そうね」


 ちゃんと練習しているチームだからこそ、積んできた戦術で点を取りに来るはず。

 そう予想した俺とだいは、内野へバックホーム用の前進守備を指示し、外野手も少し前に出す。

 佐竹先生からも何かしらサインが出ていたし、とりあえず何かしらの動きがある、そう思ったのだが。

 外角外れてボール、外角ギリギリにストライク、ほぼ同じコースにストライクと、3球投げて1ボール2ストライク。ここまで相手に動きはなく、簡単に3番バッターを追い込んでしまった。


「ランナー警戒緩めるなよ!」


 だが、佐竹先生のこれまでの采配を考えれば、無策に追い込まれたとは思えない。

 そう思って警戒心を切らさないように生徒たちに伝え、市原の視線も俺の方を見て頷いた。


「バッターアウト!」


 そして追い込んでからの4球目、お腹あたりの高さから胸くらいの高さまで浮かび上がるライズボールで、3番バッターを三振で切って取ることができた。


「……ふむ」


 その結果に、だいが小さく声を漏らす。

 1アウト2,3塁のピンチが、2アウト2,3塁のここを抑えればグッと勝利を引き寄せられるチャンスへと変わったのだ。

 もちろん迎えるバッターは4番バッターだが、ここまで凡打と三振と、完全に市原が抑え込んでいて、分は市原にあるだろう。

 歩かせる手もなくはないが、それが返って油断を生み、流れを渡してしまうことにもなりかねない。

 そもそも高校生の部活で敬遠は、個人的に何だかせこい気がして、嫌なのだ。

 

「外野! セカンドランナー還さないようにな!」


 俺は敬遠なんかしないぞとアピールするべく、生徒たちに集中を切らさないように声をかけたが、2アウトになったことで、守備につくみんなはどこか少しだけ安心した表情になっていたように見えた。

 それは市原も同じだったのだろう。俺の方を見てから頷く姿には、どこか一息入れてしまっている様子が見えた。


 だが——


「タイム!」


 審判の宣告とともに、俺から視線を国見さんに移し、サイン交換中に見えた市原の動きが止まる。このタイミングでタイムを取った試合を止めたのは、国見さんだった。

 さっきのピンチになったタイミングではなく、この2アウトになったタイミングとは、どういう意図なのだろう?

 そう疑問に思って二人の様子を見ていると、二人が同時にショートの柴田の方へ視線を送っていた。とはいえ見られた本人は、少し前のイレギュラーを気にしてか、しきりに足元の土をスパイクで均していて、二人の視線には気付いていない様子。

 そして柴田に声をかけるでもなく、最後に市原がニコッと微笑んで国見さんの頬をつついてから、国見さんが定位置に戻る。

 このタイミングで二人が何を話したのか、俺には全く分からなかったが、とりあえず国見さんが市原に頬をつつかれてやたら嬉しそうだったのは分かった。ほんと、俺に分かったことはこれくらいだったのだが——


「市原さんの疲れを感じたりしてるのかもね」

「え? あいつ今日はまだそんな球数投げてないだろ?」

「うん、ここから見ている分にも、球数的にもまだまだ大丈夫そうだけど、中学の頃からバッテリーを組んでて、あれだけ市原さんのことを好いてる美奈萌にだけ感じられる感覚があるのかも」

「あー……なるほど」

「雨の日ってボールが滑るから、そういうのも気にし続けると、いつもより早く疲れたなってなることもあるしね」

「なるほど。さすがピッチャー経験者」

「うん。だから見た目以上に疲れてる場合もあるかも」


 神妙な顔つきを浮かべるだいの方を見ながら、だいの予想を聞かされて、たしかにと俺は頷いた。


「だから今のタイムは市原さんの感覚の確認で、打たせて取るか、三振狙いにいくかどうかの確認だと思う」

「ほうほう」


 そして改めて状況確認のためフィールドを確認すれば、この場面の最前が見えてくる。

 この場面の理想は三振でアウトを取ることだ。

 ランナーがいる以上、エラーが起きれば点が入る。だからこそ理想はエラーの可能性を生み出さない三振アウト。

 きっとバッテリーも、ここは三振狙いと考えたはず、と思う。


 そう思ってこの勝負を見守れば、初球は相手を警戒するように外角に外れるボール。2球目は見送ればボール球かもしれないコースに投じられたインコースを攻めたハーフスピードのストレートで、タイミングを外し三塁線に引っ張っられるファール。3球目はビシッと投げ込んだ外角低めのストレートで空振りさせ、1ボール2ストライクと追い込んだ。

 そして三振を取りに行った4球目は外角低めのストライクゾーンからボール球になるドロップボールで、それを見送られて2ボール2ストライクの平行カウントへ。

 続く5球目、内角高めの少しだけストライクゾーンから外れたところに投げたストレートが、ファール。


「ふぅ……緊張するな」

「うん」

「頑張れそらちゃん……!」


 それは先程までの少しだけ安心した空気から一変した、本当に真剣勝負、手に汗握る勝負というのが相応しい対決だった。

 見ている俺たちやベンチメンバーにも、緊張感が伝わってくる。

 おそらく守っている生徒たちも、相当に緊張しているだろう。

 そんな緊迫した雰囲気の中で投じられた、6球目。先程3番バッターを三振に取ったライズボールを市原が投げ込んだのだが——


 予め高めのコースへ振り出されたバットに、まるでボールが吸い寄せられるように接近していって——


 ギンッ!! と響いたのは鈍い音ながらも、打球がセンターとレフトの間へと飛んでいく。

 それは先ほどの国見さんの打球とは違って高い弾道を描き、少しだけ詰まった打球音からも分かる通りジャストミートではなかったのだが、セカンドランナーを警戒して少しだけ前に出していた外野手に取っては、見送れば頭上を越されること間違いなしの打球だった。


「珠梨亜ちゃん! 取れー!」


 そんな後方に飛んでいく打球に対し、センターの萩原が懸命に足を動かし、左中間奥へと疾走する。


「おっけーーー!!」


 そして市原の声に応えるように萩原の声が響き、おそらく捕れると判断出来たことが伝わった、のだが——


 左中間後方へ懸命に打球を追いかけた萩原が、捕球の最後の最後、斜め後方にジャンプするように飛びつきグローブを差し出し——


「「「ああ!!」」」


 チーム全体から、悲鳴にも似た声が上がる。

 懸命に差し出した萩原のグローブにボールは一瞬入ったように見えたのだが、飛びついた勢いがあったせいか、完全捕球になる前に萩原の差し出したグローブからボールが弾かれるように飛び出てしまい、萩原自身は勢いのまま外野の芝の上に倒れ込み、これは同点止むなしと、誰もがそう思った。

 のだが——


「届けーーーっ!!」


 俺たちの視界に、勢いよく別な人影が入ってきて、雄叫びのような叫びと共に、ボールに向かって飛び込んできたのである!


 そして——


「どやーっ!!」


 これ以上ないほど高らかに、楽しそうな声がグラウンド全体に響き渡る。

 そこに現れたのは、まるで救世主のように飛び込んできたのは、もちろん——


「アウト!!!!」

「紗里ちゃーーーん!!」

「ナイスキャッチ紗里!!」

「すげーーー!」

「ナイスキャッチだよー!!」


 高らかに告げられた審判のジャッジコールの後、チーム全体、いや保護者席からも大歓声が巻き起こる。

 そう、俺たちの窮地を救ってくれたのは、これが初のソフトボールの試合という、石丸さんに他ならない。

 打球は明らかにセンター寄りだったのに、俊足を飛ばしていつの間にか萩原とほぼ同じ位置まで駆けつけていたレフトの石丸さんが、萩原の落球直後に飛び込んで、萩原のグローブから溢れ出したボールが地面に落ちるより前に自身のグローブの中にボールを収めたのである。


「超ありがとー!!!」


 そして先に起き上がった萩原が石丸さんの手を引き彼女を立たせ、抱きついた。

 もちろんこのスーパープレーを前に、俺とだいもどちらもガッツポーズをして、何だったら俺も危うくだいを抱きしめそうになったくらいである。


 そんなこの大ピンチを救ったヒーローならぬヒロインへ萩原が抱きつきながら、終始感謝を伝えながら戻ってきて、一塁ベンチ全員で石丸さんを胴上げしそうなほどの大盛り上がりを見せる。


「やー! あたしってばYDKやればできる子っした!」


 濡れた芝に飛び込んでユニフォームが水浸しなのも、意にも介さず、満面の笑みを浮かべる石丸さん。


「ほんとだよー!」

「うん、本当にナイスキャッチよ紗里」


 そんな彼女へ市原が抱きつき、だいの表情も今日一の明るさを見せ、このプレーにはさしもの国見さんも、表情が薄い三宅さんも、安堵したような様子を見せていた。

 そんな俺たちとは対照的に、さすがに佐竹先生も少し下を向いているようで、どんよりし出した練馬商業ベンチとうちとでは、明らかな明暗の差が顕著だった。


「よし! この勢い止めないぞ! 最終回、追加点! そら、円陣だっ!」

「おうよー!」


 だがここで相手に気を遣ったりするのは、スポーツマンシップに反するから。

 俺たちは石丸さんの最高のファインプレーが生んだ勢いのまま、最終回の攻撃に望むべく全員で円陣を組んだ。

 その中で俺は右にだい、左に市原と肩を組み、二人の腕の感触を首辺りに感じながら——


「絶対勝ーーーつっ!!」


 市原の最高に元気な声で、チームの士気をMAXまで高めるのだった。

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