第511話 閑話休題〜男の独白〜

「ごめんね、後でちゃんとお金返すから」

「その辺は適当でいいさ。とにかくいろいろ気をつけてな」

「ん、頑張る。りんりんお仕事頑張ってね」

「おう、じゃあな」


 「行ってきます」を言わないのは、意図的だった。その言葉を言って家を出るのは、だいが見送ってくれる時だけにしたいから。

 そんな俺の意図を汲んだかどうかは分からんが、とりあえずあいつのメンタルが焦りのせいか昨日の朝よりもあまりいい状況じゃないのは明白だ。

 今さっきあいつは俺を「りんりん」と呼んだ。昨日までは言ってから気付いて「師匠」って言い直してたのに、今はそれがなかったのだ。

 つまりそれだけ余裕がない、そういう状況なのだろう。


「あ。家出るまでになんか進捗あったら、くもんさん伝にジャックから俺に連絡してな」

「おうよ。いやぁ、ジャックたちとリアルで面識持っといてよかったよかった」

「ひと段落したら、ちゃんとお礼言うんだぞ」

「分かってるよぅ。りんりんと菜月ちゃんにもちゃんとお礼するからね」

「はは、期待してるよ」


 余裕がない中でも、それでも表面上はそれを表に出さずに笑顔を浮かべているのは、見られる仕事をしているからこそのプライドなのだろうか。

 心配は残るが、俺にも仕事があるし、今はそれに期待をかけるしかない。


 そう思って俺は俺の貸した服を着て手を振る亜衣菜に軽く手を振り返してから、玄関ドアを閉め職場へと至る道を歩き出す。

 アパートの階段を降りて、我が家から離れる。

 天気は快晴、何という出勤日和。

 進む歩みも軽いってもんだ。

 テクテクテクテクテクテク。


 と、ちょっと早歩き気味に歩いて、我が家がしっかりと見えなくなった辺りで——


「……今日も泊めることなったらどうしよう」


 だいや亜衣菜の手前、あれこれ真面目になって考えていたけど、昨日の仕事中ぶりに完全に一人になって、俺はある意味我に返った。

 いや、我に返ったというのは適切じゃない。むしろここまでずっと俺は我を意識しまくってたのだから。

 そんな完全に冷静を保ち続けた俺を、本当に誰か褒めて欲しい。

 え? なんでかって?

 いいだろう。俺の理性がいかに頑張ってたか教えてやろう。

 まず昨夜、俺がだいを送って帰ってきた時。亜衣菜の奴、何してたと思う?

 普通、家出る前と同じくPCの前で山下さんが来るの待ってたと思うだろ?

 なのにあいつ、まるで我が家のようにシャワーを浴びてたみたいで、見事に風呂上がりの姿でいたんだぞ?

 おかげで二日連続で亜衣菜のバスタオル姿を目の当たりにさせられた。

 いや、正確には今回のバスタオル姿は初日とは違う。初日は身体に巻いて身体を隠していたけれど、昨日は肩からかけるだけだった。

 つまりそれは、事実上全裸と何ら大差なく……ものすごく気まずい空気になったのは言うまでもない。

 そしてそんな気まずさを跳ね除けていざ寝ようとなった時、俺が床に布団を敷いて、亜衣菜にベッドを貸してやったわけだが、余程眠かったのか横になった瞬間亜衣菜は無防備な寝顔をさらけ出したわけである。

 その寝顔の可愛さったら思わずじっと見つめてしまったほどで……げふんげふん。いや、これ以上は何も言うまい。

 

 とまぁつまり、言ってしまえば俺は己の強い意志で理性を保ちながら、長い一夜を明かしたというわけである。

 ほんと、己を律するために何回だいの顔を思い浮かべた分からんぞ。


 そもそもさ、色々記憶を辿ってみれば、ここ数ヶ月でゆきむらだの風見さんだのゆめだの、過ちが起きてもおかしくなかった場面はたくさんあった。

 俺が暴走していたら、色々失ってたリスクがいっぱいあったわけである。

 え? でも俺にはだいがいるじゃんて?

 いや、それは分かる。当たり前に分かる。だいが1番。それは揺るぎない。

 でもさ、みんなのことを思い浮かべてみろよ? 

 まずゆきむら。綺麗な顔立ちと白い肌とスラっとしたスタイルに、何よりあのボーッと見つめてくる瞳と何も知らそうな危うい純粋さ。守ってあげたくなっちゃうじゃん?

 次に風見さん。彼女は何より印象的な八重歯が可愛いし、あのギャルっぽい雰囲気とか、無邪気で生意気な感じも正直嫌いじゃない。

 そしてゆめはもちろん言わずもがな。初めて会ったオフ会の時、正直一番タイプだったわけですし。本当に既に性格を理解してても、分かっててもあのあざとさにはやられちまう。

 他に出会った人で考えると、久々に再会した太田さんだって変わらず綺麗だったし、性格に難ありでもうみさんなんか好みど真ん中である。

 要するに、ここ最近出会ったみんな、可愛いのだ。

 亜衣菜と別れてから数年、ずっと女っ気のなかった俺なんだぞ? 今年の6月のオフ会以降、滞留してた流れが一気に流れ出したみたいに色んな人と出会いだしたけど、マジでずっと華のない生活してたんだぞ?

 出会い方とか、出会うタイミングとか、関係性が違ったら、俺に引くべき一線がなかったら、きっと今とは違う世界もあったことは、否定しない。


 だがそれらのあらゆる誘惑を、俺は理性一つで打ち倒してきた。

 だいへの真なる想い胸に、俺の理性が邪なる思いを倒し続けたわけである。

 つまりさ、俺の理性って相当強いんじゃなかろうか?


 ……いや、こんなこと思う時点で、俺の理性が大したことないのは分かってる。そもそも俺にはそんなこと出来ないのだ。

 出来るのは精々妄想まで。

 ……聖書だと、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたことになるそうだからアウトだけど、でもほら、ここは日本だし? 日本国憲法が思想の自由を認めてくれてるし?

 

 ……はぁ。


 なんと虚しいことを考えているのだろう、そんな自分に俺は自分に大きなため息をつく。


 むかつくほどに清々しい秋晴れが、まるで俺に「大丈夫、君は誠実だにそんなこと出来ないから」、そんなことを言ってくるようで鬱陶しい。


——でもあいつ、どんな服買うんだろ。


 こんなことを思っても、油断すると余計な考えが浮かぶのだからやっぱり俺の理性もタチが悪い。

 ちなみに家を出る前のやりとりでもあったが、都心部にある出版社に顔を出すに当たって、流石にメンズの格好で行くのは問題だろうと、亜衣菜に服を整えるようお金貸した。

 久々にワンピース姿の亜衣菜が見たいな……って違う違う。何を買うかは、あいつ次第。


 ……いやほんと、見返り求めたら相当なもんだろ、今回の貸し。

 って、いかんいかん。

 亜衣菜はだいの友達、だいの友達だから。

 人を助けるのに理由はいらないだろってば。


 ……はぁ。

 ……大和に愚痴るくらいは、許されるよな。


 いつもと変わらぬ通勤経路が、「お前は今日も平常運転だな」と笑ってる気がするのは、きっとちゃんと寝てないから、そうに違いない。

 そんな道を歩きつつ、俺は聞き上手な同僚親友のことを思い浮かべ邪な考えを押し退けながら、今日も残業なしで早く帰らねばと決意を新たにするのだった。

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