第500話 困ってる人は捨て置けない

「……ごめんね」


 加わってくる力は、何も変わらない。

 華奢な身体の割に思ったよりも強い力で、亜衣菜の腕が俺の身体を抱きしめる。

 そんな密着から、貸したTシャツ越しに弾力ある柔らかさが思いっきり当たってくるのだが、その感触には心当たりがあった。

 

 こいつ、上半身に下着を付けてねぇな……!


 だが今この雰囲気で、俺にそれが言えるだろうか? いや言えるわけがない。

 もちろんここでそれを口にできれば、この雰囲気すら変えることが出来たかもしれないが、俺にはそれが出来なかった。いや、したくなかった。

 だって——


「とりあえず、その、なんだ。詰まってるものが何なのかわかんねーけどさ、吐き出したら楽になるかもしんねーし、話せたら話せよ」


 俺に身を寄せる身体が、ずっと小さく震えていたから。

 抱きついてくる亜衣菜の顔は俯いていて見えないけれど、たぶん泣いていると思う。


 こいつを突き放したあの時は、俺がそうしたんだからと。その涙に手を伸ばすことは出来なかった。

 だが、今この涙の意味は分からない。

 分からないならば、身体を震わせ助けを求める人に応えるのは、悪いことだろうか?

 いや、俺はそうは思えない。

 世間的には俺とこいつは元恋人同士の関係で、こいつに手を差し伸べるのは今カノだいに対して失礼だって思われるかもしれないけれど、困ってる奴を、助けを求める奴を無視することは、俺には決して出来ないのだ。

 もしここで困っているのが他の誰だろうと、俺はきっと助けるだろう。

 もちろん話を聞いて、あの夏にした話の延長戦だっつーのなら、これ以上は何もしないけど。


 そんな人助けモードに入った俺は、ぽんぽんと亜衣菜の背中を撫でながら、「大丈夫だ」と手のひらごしに伝えていく。

 言葉はなく、俺はこの手を動かすのみ。室内の音も、PCから聞こえてくるBGMにかき消されてしまうほど小さく、時折亜衣菜の鼻をすする音が響くのみだった。


 そんな時間が、それなりの時間過ぎたと思う。


 そして今何時だろうな、もう5時なったかな、そんなことをちょっとだけ思い始めるくらいには、割と長い時間亜衣菜の背中をさすり続けていると——


「……ありがと。ちょっと落ち着いた」


 その声は、ほんのわずかに、さっき俺に謝ってきた声よりも回復していた、気がする。


「そうか、よかったな」


 そんな風に聞こえたので、俺はそっと離れる亜衣菜を確認し、最初に来た時に座らせた座椅子へ座らせた。


「とりあえず、お茶淹れ直すからさ。あったかいの飲んで落ち着け」


 そう言ってテーブルの上のマグカップを一旦回収し、改めて温かい紅茶を入れ直す。そして今度はPCデスクの椅子ではなくテーブルを挟んで向かい側に座って、俺も亜衣菜と目線の高さを同じくした。

 そして俺からマグカップを両手で受け取った亜衣菜が俺の目をじっと見つめてきて——


「りんりんにくっつくと、やっぱり落ち着いちゃう」


 普段よりも甘く幼い猫撫で声に、俺は少しだから懐かしい気持ちに包まれる。

 だから俺はさっきまでよりも優しい笑顔を意識した。


「弱ってる時は人が恋しくなるだけだよ」

「でも、何も言わなくてもわかってくれるもん、りんりんは」

「それは買い被りすぎ」

「むぅ……」


 そんな改まった状況の中、座椅子の上で体育座りし、膝の上に顎を乗せる亜衣菜は、あの頃と変わらない幼さを俺に見せてくる。

 LAを始める前、まだ普通の交際をしてた頃はよくこうして甘えてきてたっけ。

 そんな記憶も蘇る。


 でもあの時と全く同じことはしていない。

 

「ギューはしてくれないの?」

「それは甘えすぎだっての」

「あは、さすがにジョーダン」


 そう、あの頃はこうして話を聞く時は、俺が後ろから亜衣菜を抱きしめて、文字通りすぐそばで話を聞いていたのだ。

 だがあの頃とは状況の違う今だからこそ、当然俺はそうはしない。

 そんな俺に亜衣菜は不満そうに頬を膨らませ……たりはしなかったけど、一瞬だけ、少し寂しそうな、そんな表情を見せた。

 だがすぐ気を取り直し——


「お話、聞いてくれる?」


 何か言いづらいことではあるのだろう、意を決してか、唇を真一文字に結んでから、そう告げてきた。

 

「話したら楽になるぞって言ったの、俺だぞ? ちゃんと聞くから、話せよ」


 そんな真剣な面持ちになった亜衣菜に、俺は柔らかい表情に努めながら話を促す。

 そして、部屋の中にLAのタイトル画面で流れてくる勇ましげなBGMが響く中、ゆっくりと亜衣菜が口を開いていった。


「8月の終わり頃かな、あたしけっこう傷ついてたじゃん?」

「え、あー……その件について俺に同意を求めるかね?」

「あたしだから言えるんじゃん」

「いや……うん、そうですね。はい」


 開かれた口から紡がれた言葉は、正直なかなか反応しづらいものだったけど、表情の真剣さは変わらない。

 だからこそ俺も文句は言えなかった。


「夢の国の時も、一時的に舞いあがっちゃったけど、本当は気持ち的に、8月の終わり頃と変わんなかったんだ」

「つまり、傷ついてたってこと、か?」

「うん。……でも、9月ったらむしろりんりんにフラれた直後よりひどかったと思う。あの時はほんとごめんね。そのせいで菜月ちゃんも怒らせちゃったし、ゆめちゃんにも怒られちゃったし、ほんと年上なのに何してんだろうね、あたし」

「え?」

「ん?」


 そして続けられた言葉であの日の裏情報のような、亜衣菜の事情が伝えられたが、俺はその話の中の一つが気になった。


 ゆめちゃんに、怒られて……だと?


 それは聞いたことがない話だった。

 たしかに一人どこかへ消えた亜衣菜を追いかけたのはゆめだった。

 そして、先日の大和の元カノに対するゆめのことを思えば、だいのことを思ってゆめが亜衣菜に牙を向いたのは、想像出来ないこともない。

 ……怒られたって言ってるけど、相当なこと言われたんだろうなぁ。


 だがあえて今はそこには触れず、俺は亜衣菜に何でもない、続けてくれと目で訴えた。


「まぁつまりさ、そんな9月を迎えるくらい、ただでさえメンタル弱ってた8月の終わり頃に色々あったんだけどさ。……あー、本当今でも後悔してるし、思い出すと辛いんだけど」

「……うん」

「しちゃったんだ」

「へ? 何を?」

「……そこは言わなくても分かってよ」

「え……あ。ああ……え?」

「分かったら聞くのはさ、何を、じゃないよね」

「え、それ聞いていいもんなのか……?」

「うん、別にいいよ」

「じゃ、じゃあ……誰と?」


 何と質問しづらい話なのだろう。

 でも、亜衣菜の言葉たちから、俺がするべき質問はこの3文字だれとに違いない。


 そんな俺の質問に、亜衣菜は自重気味に苦笑した。

 そしてどこか投げやりな、だが相変わらずの美しさを備えたその顔を俺に向けて、俺の質問への回答を口にしようとするのだった。

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