第501話 人の価値

「誰だと思うー?」

「え、いやそんなの俺以外の誰か、しか分かんねーけど……」

「ん、そうだよね」


 答えてもらえると思ったら答えてもらえず、俺が困惑の様子を見せると、亜衣菜は何と表現すればいいか分からない複雑な表情を浮かべて、遠くを見るように視線をぼんやり彷徨わせた。


「あ、でもね?」

「ん?」

「最後までは、してないの」

「あ……ああ。そう、なんだ」

「うん。途中まで。脱いで、触られたくらいで怖くなって泣いちゃった。もうアラサーなのにね」

「いや、それは関係ねぇだろ……」


 そして今度は自嘲気味に薄く笑いながら俯き加減に告げてくる。

 何でも話せと言ったのは俺自身だったけど、正直どう反応していいのか分からない。

 それと同時に、さっきまで何となく考えてることが分かった亜衣菜の表情が、今は全く読めなかった。


「……幻滅した?」

「え?」

「最後までしてなくたって、あ、こいつそんな簡単に股開こうとする女なんだなー、って」

「……は?」

「ううん、自分で一回は同意したんだから、何も間違ってないんだけどね」

「いや、おい」

「でも本当はあたしだって望んでそうしようと思ったわけじゃないもん。でもりんりんにそう思われてもしょうがないよね。結果的にそういうことしかけたのは事実なんだし」

「おいっ」

「それにあたしだって自分の居場所、守りたかったもん。だからしょうがない、うん、しょうがなかったんだよ」


 その後も何を考えているのか分からない様子のまま、独り言のように言葉を吐き捨てていく姿は、テーブルを挟んで座っていてもなお、震えているのがはっきりと見てとれた。

 きっと今こいつには、対面に座る俺さえも見えていないだろう。

 おそらく、思い出した記憶に飲み込まれそうになっている。


「亜衣菜!」


 だからこそ俺ははっきりと、目の前で苦しむ弱っちい女の子の名を呼んだ。


「そうしなきゃあたしに価値なんかないんだもん」


 だが俺の声が届かないのか、悲痛な言葉は止まることなく耳を突く。

 彼女の表情は変わらない。

 その声に耐えられなかったのは、俺の方で——


「亜衣菜!!!」


 俺は立ち上がって亜衣菜の隣に進み、その肩をグッと掴んで身体の向きだけでもこちらを向かせ、再びその名を呼んだ。


「あたしなんてさ——」

 

 だが、俯き加減なその瞳に映るは虚。

 だから——


「このメンヘラ女!! お前いつからそんな女になったんだよ!!」


 何か自分の中でプッツン糸が切れたように、俺は正面切って亜衣菜に叫んだ。

 普段だったら絶対言わない言葉を、包み隠さずぶつけていく。

 一度顕現したその感情は、後続の言葉たちを連れ立って堰を切ったように溢れ出す。


「誰が相手かわかんねぇけどさ、自分のための決断のつもりだったんだろ!? だったらいつまでもうだうだ言ってんじゃねぇ!!」


 何が俺をここまで駆り立てるのか、自分でも分からないけれど……目の前の亜衣菜の姿がすごく悲しくて、悔しくて、見てられなかった。


「で、結局最後までヤらなかったんだろ!? 好きでもない相手に汚されずに済んだんだろ!? 起きたことは変わらない。だったら、お前のためにギリギリでもちゃんと逃げた自分を褒めてやれよ!!」


 そしてこんな俺の反応が予想外だったのか、はたまた俺の声に驚いたのか、いつの間にか亜衣菜は呆然とした顔で俺の方を見ていたが、逆にもう、俺が俺を止められず——


「自分の価値は自分で決めろ! 他のやつらに任せんな!! それでも自分に価値がないと思うなら、モデルなんてやめて北海道帰れ!!!」

 ガチャ

「お前昔はもっと自分に自信ある奴だったじゃん!? わがまま押し通すような女だったじゃん!? 何急にネガティブメンヘラにジョブチェンジしてんだよ!?」

 ギィ

「結局何があったのか知らねーけどさ!? 私は悲劇のヒロインですみたいな顔すんな!! そんな感じのこと言うな!! ダセェことすんな!! お前には似合わん!!!」

 ポン

「だからな、まず何が起きたかちゃんと話せ。そんでもっとちゃんと俺を頼れ!! 分かったか!?」

 ポンポン

「俺が昔好きだった亜衣菜は、こんな女じゃなかった!!!」


 一気呵成に俺は胸の内に込み上がった言葉を吐き出し切った。

 そんな普段見せない顔を見せた俺に驚いてるのか引いてるのか、俺の方を向いてはいるが、亜衣菜は視線を俺と合わせることなく——


「? お前どこ見て——」


 その視線がまるで何かを見ているようだと気付いたのだが——


「ねぇ?」

「うわぁ!?」


 バンっと強く肩を叩かれると同時に、俺の背中側から声が響く。

 その声に俺は心底驚いて、思わず亜衣菜の隣に飛び退いた。

 そして俺がバッと振り返ると、そこには——


「だい!?」

「こんばんは? おはよう? でもやっと気づいてくれたのね」

「え、いやなんで……」

「連絡したのはゼロやんじゃない。何となく目が覚めて、時間を確かめたら普段絶対送ってこない時間に変な連絡が来てたから、気になったの。それで来てみたんだけど、とりあえず一言いいかしら?」

「いいかしらって、え? 何が?」


 寝起き間もないのは、間違いないだろう。

 だがそれでも凛として咲く薔薇のように美しいだいの姿がそこにはあった。

 でもなんで?

 そんな考えが拭えない。

 たしかに俺は困ったことがあったから、明日……というか今日仕事が終わったら相談があるって伝えてたけど、亜衣菜が来たって伝えたら明日の仕事に支障を来たすかもと思って、亜衣菜の名前は出してないんだぞ?

 それなのに、何で?

 何で気になった?


 なんでだいが今ここにいる?

 

 じっと俺を見てくる視線と、疑問を浮かべる俺の視線がぶつかる。

 そして——


「あなたたちが何の話をしていて、何があったのかも分からないけれどとりあえず」


 口を開くだいは眠気による影響か眉を顰めながらも、なぜかビシッと俺を指差しこう告げる。


「弱っている女性に対して夜中に外まで聞こえるような大きな声で怒鳴りつけるなんて非常識。そんな男は、私の友達から離れなさい」

「……は?」


 つい先程までヒートアップしていた自分の感情はどこへやら。

 斜め上過ぎただいの言葉に、俺は思い切り脱力するのだった。

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