第48話 据え膳食えるは清き関係
月明りは雲に隠され、街灯から遠い場所はかなり暗い。
都会の夜を、俺たちは歩いていた。
俺と亜衣菜の間にあるのは、沈黙。
だってしょうがないんだ。聞いてくれ。
さっき俺を引き留めて、亜衣菜は俺の左手を取った。
久々に触れられた彼女の手の柔らかさに、俺はそれを振りほどけなかった。
そしてそのまま。
うわー、やべー。手汗とかかいてたらどうしよう。
つーか、女子と手を繋いで緊張するとか、俺童貞かよ!
あーだこーだ頭の中を巡るが、結論として緊張するものはするのだ。
どうしようもない!
神田から秋葉原はほんとすぐの距離だというのは、この前だいと歩いたから知ってるし、たぶん、20分ちょっとの時間だろう!
夜道を女性一人に歩かせるとかね! よくないからね!
って、あ、そうか。
この前、この道をだいと歩いたんだ……。
手を繋いだりはしなかったけど。
数日の間に、同じ道を、違う女性と歩くとか……しかも元カノ。
だいの顔を思い浮かべると、不思議と少しだけ冷静になれた気がした。
辺りを見渡すと、たしかにこの前見た景色。
たった数日では変わらない景色。
違うのは、俺の隣にいる女性だけ。
沈黙が破られたのは、10分ほど歩いた頃だった。
「りんりんは、なんで、そんなに優しいかなぁ」
「え?」
「普通、手を繋いで歩くのは、恋人同士だよ?」
「あ……」
亜衣菜の瞳は、何故だか少し寂しそうな気がした。
「掴んだのはたしかにあたしだけど、こんなことされたら、女の子は勘違いしちゃうぞ?」
だがそんな気がしたのも束の間、普段の彼女の瞳に戻る。
いつでも楽しそうな、好奇心に溢れた大きくてきれいな、黒い瞳。
「あー、じゃあ離すか」
「え、やだ」
「今の流れは、離したいのかと思ったわ」
「嘘! わかってたくせにー」
「はいはい」
頬を膨らます亜衣菜を流してみせるが。
いやまぁ、そりゃさすがに俺だってそのくらいはわかる。
この前亜衣菜の気持ちは、聞かされたわけだし。
となると、悪いのは離さなかった俺か。
ええと、すみません。
誰に謝ってるのか分からないが、俺はとにかく心の中で何かに謝る。
亜衣菜のことが好きかどうか、ほんとのところで分からない。
好きか嫌いかの2択を迫れればもちろん好きだ。だがそれは、亜衣菜だけの話ではない。
一人の女性として、俺は亜衣菜が好きなのか。愛せるのか。そう問われると……大学生の頃は簡単に出せた答えが、今は出せない。
けれど、彼女の手をなぜか離せない。
クズだなー、ってのも、分かってる。
だけど、今だけは、ちょっとだけ、許してほしい。
「……りんりんはさ」
「ん?」
脳内で混乱し続ける俺に、亜衣菜は少し落ち着いたトーンで話し出す。
彼女が右手で握る俺の左手が、きゅっと、強くなった気がした。
「ううん。なんでもない! あっぶないあぶない、ルール違反するとこだったよー」
「え、ルール?」
「こっちの話っ」
亜衣菜が焦ったように両手で自分の顔をあおぐ真似をしたことで、彼女の手は俺の手から離れていった。
しかし、ルールってなんだ?
事務所NGとか……って、こいつそういうのに入ってるわけじゃないよな。
うーん、どういうことだろうか。
「もうちょっとで、うちだよ」
「あ、もうそんなに歩いたのか」
時計を見ると22時半くらい。
これは帰ってすぐ寝ることになりそうだ。
ちなみに一度俺から離れた亜衣菜の手は、俺の手に戻ってきてはいない。
なんとなく寂しいような、ほっとしたような、複雑な気持ちが俺の心を包む。
そして並んで歩く先に、見覚えのあるマンションが見えてくる。
ついこの間、連れてこられた場所に、今日は自らの足で向かう不思議さ。
「この前ごめんね。一方的に色々言っちゃって」
「え? あぁ……まぁ、びっくり、はした。ってか、してる」
「うん、ごめん」
「謝ることじゃ、ないだろ」
「そう?」
「人を好きになるって、すごいことだし、さ」
「うん……」
「俺なんか、お前と別れてから、なんかもう好きとかそういう感覚、よくわかんなくなっちまってるかも」
「えー、あたしけっこう、ずっとりんりんのこと好きだったのにー」
「あのな、簡単に好きとか言うな」
ため息一つついてから、俺は亜衣菜に俺が感じている言葉を伝える。
「お前が好きだったのは、きっと昔の俺だよ」
「えー、りんりんは変わらないよ?」
「それはどうかなぁ……俺も変わったって自覚がないけど、やっぱ社会人なって変わったとこもあるかもしんないし」
「うーん……でもそしたら、これから新しいりんりんにも出会えるのかな?」
「え?」
にこっと微笑む亜衣菜の顔から、思わず目線をそらす。
やばい、今のやばい。
新しい俺に会えるかな、とか。
うわ、やばい。ちょっと食らった。
思わず照れてしまった俺は、何も言葉を返せないまま、亜衣菜の住むマンションに到着した。
オートロックの自動ドアを開けて、中に入り、亜衣菜の部屋の前まで移動する。
さすがにここまでくればマスクも眼鏡も取るようで、改めて露わになった素顔に、俺は少しだけ見とれてしまう。
さっきの会話、マスクなかったら危なかったな。
「送ってくれて、ありがとね」
「ん、どういたしまして」
「……うち、寄ってく?」
「はぁ? 行くわけねーだろ」
行くわけねーだろ。今何時だと思ってんだ。
だが、亜衣菜は少しだけ声を小さくして。
「りんりんの好きなコスプレ衣装とか、いっぱいあるよ?」
こそっと、俺に耳打ちする。
その言葉に、色々思い出してしまった俺の顔は真っ赤だろうな!
「ば、な、自分を大事にしろって!」
「あは、別にりんりんならいいし。っていうか、りんりんがいいし?」
「あ、明日は仕事だし!」
「明日が休みだったら、いいの~?」
「ああもう! やかましい!」
こういうこと言うのはやめてほしい。
そりゃ俺だってもう何年もご無沙汰だから、ってあーもう!
俺は何を考えてるんだ!!!
「あは、照れてるりんりん可愛いな~」
「うるせえ! 帰る!」
「あ、まってよっ」
「なんだよ?」
「あのさ、またご飯行ってくれる?」
「……考えとく」
「えー、つれないなー」
「はいはい」
「じゃあ、一緒に写真とろっ」
「写真?」
「うん、ほら、こっちきてっ」
ぐっと俺を引き寄せて、亜衣菜の真横に移動させられる俺。
横に並んだところで、亜衣菜が自分のスマホをインカメにして、俺と二人のツーショット写真を撮る。
手慣れた動きだったが、ふつうこういうのって、食べにいった店とかでやるもんじゃないなんだろうか。
家の前ってこいつ……。
「あ、ほら。いい感じだよ~?」
「どれどれ?」
俺の方へ亜衣菜が自分のスマホの画面を見せてくる。
それを覗き込もうと画面に顔を近づけようとしたら。
「!!」
俺の視界いっぱいに現れた、亜衣菜の顔。
そして、唇に残る柔らかな感覚。
「えへへー」
少し照れながらも、相変らずの笑顔で笑う亜衣菜。
「何年振りだろうね?」
「お、覚えてねぇよそんなの」
強がってみるものの、あー、こいつ、くそ……。
ダメだ。もうこいつの顔、真っすぐ見れない。
彼女ができた生徒とかに、キスくらいさっさとしちまえよとか言ってた俺なのに、いざ自分がこうなるとか、うっわ、あいつらのこと馬鹿にできねぇ……!
「今度は、休みの日の前に来てね?」
「ば、馬鹿言うな!」
「あはは、明日もお仕事がんばって」
「……おう。じゃあな」
「うん、おやすみりんりん」
「ん、おやすみ」
亜衣菜の顔を真っすぐに見れないまま、俺は亜衣菜に別れを告げて帰路につく。
だめだ、きっとあのままあいつといたら、俺流される。
それだけは、まだだめだ。
肌を合わせてよかったのは、当時は付き合ってたから。
今は、付き合ってないんだから。
どこをどう歩いたか覚えていないほど、頭の中が亜衣菜のことでいっぱいだった。
とりあえず電車に乗った時の時刻は、23:10。
家に着くころには、もう日が変わる手前だ。
あー、明日から仕事とか、もうそんなテンションじゃねえよ……!
いや、まぁ、行くんだけどさ!!
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