第506話 博愛は伝播する

 誰も何も話せない。

 身動きを取ることも出来ない。


 重くて辛い、そんな空気が漂う室内。


 響くの涙を堪えられず、鼻を啜る音のみだ。

 すっかり明けた朝を前に、もしこれが夢だったら、そんな現実逃避もしてしまった俺だったのだが——


「亜衣菜さんは頑張りすぎよ」

「え?」


 淡々とした声音が、固まった空気を切り裂いた。

 その声を聞いた亜衣菜と顔を合わせ、声の主、だいが亜衣菜の身体を抱きしめる。

 そして——


「話くれてありがとう。おかげでこうやってあなたの気持ちを思って抱きしめられる。……あのね、辛かったら辛いでいいんだよ。いっぱい我慢したら壊れちゃうよ」


 優しく語りかけるだいの背中しか俺には見えないが、こいつが今どれだけ優しそうな顔をしているかは分かった。

 そんなだいの言葉に——


「……でも、あたし……っ」

「みんなそれぞれの事情があるけど、辛い時は辛いって弱音吐いていいの。たしかに私と亜衣菜さんはライバルだったし、この前は怒って別れちゃったけど、亜衣菜さんと二人で話す時間はすごく楽しかったし、可愛くて素直でほっとけない亜衣菜さんが好き。だから、友達としてあなたを助けたいと思う」

「菜月ちゃん……っ」

「自分に価値がないなんて言わないで。亜衣菜さんの笑顔はみんなを楽しませてくれるし、あなた

の言葉はみんなを惹きつけてくれるもの」

「……でも、世の中はあたしのことなんか……」

「あなたに届けられる声は、たしかに心無いものかもしれないけれど、それは〈Cecil〉に向けられたものでしょ? 私は〈Cecil〉も知っているけれど、亜衣菜さん自身も知っている。ううん、私だけじゃなく、ゼロやんもあなたたちを知っている。つまりさ、私たちは世の中の人たちより2倍、あなたが優しくて可愛くてすごい子だって知ってるの」


 感情昂る亜衣菜に対し、ゆっくり落ち着いた声音で話すだい。

 それは俺には決して言えなかった言葉たちで、俺は完全にその言葉たちに聞き入ってしまった。

 初めて会った時は、あんなにも関わりたがってなかっただいが、まさかここまで亜衣菜に対しての気持ちを持っているとは、正直驚きだった。


「でもそうね、悔しいけどゼロやんはきっと2倍どころじゃなく亜衣菜さんのことを知ってるわ。でしょ?」

「え、あ、ああ。うん、2倍どころじゃなく、かどうかは分かんないけど」


 そんな完全に聞き役に回ったところで急に話を振られ、俺はなんとか頷いたが、頷く俺に亜衣菜の潤んだ瞳が向けられていて——


「そうだな。俺が知ってる亜衣菜はさ、いつもみんなの前で笑ってるけど、本当は周りを伺ってばっかりのメンタル弱い奴で、要領も悪くて、けっこう馬鹿なとこもあって、スイッチ入った時は真っ直ぐしか見えなくなるとこもあって……なんて言うか、みんなに求められる役割を余裕でこなせるような奴じゃないんだよ」

「ちょっと——」


 その瞳に、俺はすーっと浮かび上がってきた言葉を吐き出していく。

 それははたから聞いたら暴言で、だいが許さないと言った言葉たちに違いない。

 そんな俺の言葉に、亜衣菜は呆然と俺を見て、振り返るだいの少し怒った様子も見られたが——


「でも、優しくて負けず嫌いな努力家で、なんとかしてみんなの期待に応えようとする奴だってのも知ってるよ」


 俺を見てきた二人を無視して、俺はさらに言葉を続けた。

 俺が思う、嘘偽りない武田亜衣菜という人間を、俺は告げてやった。


「だからさ、今回はいつもより大きく空回りしすぎただけなんじゃねーかな」


 そして最後にこう言って笑ってやる。

 もちろん俺やだいの言葉が、亜衣菜を取り巻く環境を変えてやることはできないけど、それでもだいの言うの通り、お前のことちゃんと分かってる奴はいるんだぞって、そんな気持ちを込めて、俺は笑ったのだ。

 

 そんな俺の言葉を聞いた後、亜衣菜はしばらく俺の顔を見ていた。そして視線を外してゆっくり俯いていってから、再度だいの胸に顔を埋めた。

 そんな亜衣菜に俺もだいも何も言わず、室内に沈黙が訪れる。

 でもその沈黙は、さっきとは違う沈黙のように思えたのは俺だけじゃないだろう。


 そんなしばしの沈黙の後、短髪の美女がゆっくりと顔を上げて——


「ごめんね……」


 俺たちの顔を見渡してから、一言こう告げる。

 その表情は、柔らかった。

 

 だから、その言葉をもらった俺たちは——


「そこはありがとうだろ?」

「そこはありがとうでしょ?」


 見事に言葉を被せて、亜衣菜に笑いかけたのだ。


「……うん、二人とも、ありがと」


 そして久々に亜衣菜も笑う。

 それは弱々しく、まだいつもの彼女の元気溢れる笑顔ではなかったけれど——


「お前は笑った顔が、一番いいよ」

「うん、私もそう思う」

「……うんっ」


 今日初めての、いつもの笑顔だったと思う。









「それじゃ私は一回帰るから、プランXの時は夜また来るね」

「うん、頼む」

「ごめんね、二人ともお仕事だったのに」

「ううん、本当は付き合ってあげられればいいんだけど。亜衣菜さん、頑張ってね」

「うん頑張る。菜月ちゃん、本当にありがとねっ」

「ううん、友達……いいえ、私たち親友だもの」

「おー……そんな恥ずかしい言葉よく言えんなー……。でもほんと、寝不足なの間違いないからさ、無理すんなよ?」

「それはゼロやんも一緒でしょ。そっちこそまた転んだりしないでね?」

「はいはい分かってるって」

「あと、私が帰ったあと亜衣菜さんにちゃんと優しくするのよ」

「いやお前それどの立場よ……」

「あなたの彼女で亜衣菜さんの親友よ」

「あははっ、なんかあったら連絡するねっ」

「うん、よろしく。じゃあ亜衣菜さん、その連絡じゃない連絡来るの期待してるね」

「おうっ。またねっ」


 午前6時52分、来た時のようなテンションに近かっただいが我が家を後にする。

 その表情は少し眠そうではあるが晴れやかで、それを見送る俺も亜衣菜も、ついさっきまでより表情も心も軽かった。


 夜明け前から早朝の対談により、落ち込むというか、自暴自棄になりかけていた亜衣菜を助けることは出来たと思う。

 もちろん具体的な解決策は何にも決まってなかったが、少なくとも気持ちとして、深夜に突然やってきた時よりも亜衣菜の精神状態は180度好転したと言えるだろう。

 そんな一応ひと段落と判断した俺たちは、さっきまでの話し合いを終えて、とりあえずみんなで朝ごはんを食べた。

 もちろん担当はだい……と、一緒にやると言いだした亜衣菜で、わが家にあった有り合わせのものを使って朝食作りが行われ、三人で食卓を囲んだわけである。


 そして朝食を終えて、簡単に今日の方針を決定した。

 方針は明確。

 まず亜衣菜は一旦家に帰り、山下さんと話し合う。素直に自分の気持ちを全部ぶつけ、言い合ってもらう算段だ。

 そして和解というか、何かしらの決着がついた場合はプランOとして、今回の件は一件落着し、俺たちはそれぞれ普段通りの生活に戻る。

 そしてこのプランOがダメだった場合、つまりプランXとなる時は、亜衣菜は再度我が家に戻ってきて、今日の夜に改めて作戦会議を行おうというわけである。

 つーかそもそも亜衣菜の家は亜衣菜のものなのだから好きに帰ればいいと思うのだが、いかんせん鍵も何もないのが現状で、目的の相手が在宅していなければ話をすることも出来なくなってしまうのだ。つまりプランXになるかどうかは事実上山下さんの在宅の有無に関わってくるのだが……どうやら彼女は割と出かけることが多いらしく、出会えない可能性も高いらしい。

 どこに出かけているのかって考えると、色々想像してしまうところもあるが、それは置いておいても彼女も【Vinchitore】の幹部ではあるわけだから、たぶんLA内でコンタクトが取れる可能性は高いだろうし、コンタクト取れ次第、今夜にでも連れて行こうとは思っている。

 ……あ、ちなみにもうお分かりと思うがプランXエックスは実際にはプラン×バツのことで、プランOオーはプランマルだからな。


 さて、とりあえずこれが今日の方針なわけだが——


「あのさ」

「なーに?」


 話してる時間による眠気や、話し合い中の亜衣菜の雰囲気から、俺もだいも確認しておかなければならないことを一つ、完全に失念していた。

 俺がそれに気づいたのは朝食中。時間も時間だからだいは帰したけど、幸い俺はまだ出勤まで少し時間があるので、俺は今し方彼女を見送った玄関に立ったまま、同じく隣に立つ亜衣菜に話を切り出した。

 そんな俺に、憑き物が落ちたような様子で首を傾げる様は、それはまぁいつも通り可愛かったのだが、それを意識するのは捨て置いて、俺ははっきりとこう、聞いてみた。


「亜衣菜はさ、その……今の仕事、続けるのか?」

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