第573話 地獄ですか冥土ですか
ガチャ?
え、今の音って……。
聞こえた音が何の音かは、ここに長く住んでいる俺には明白だった。
そして俺同様その音に気づいたのか、ロキロキも俺と同じ方角に顔を向ける。
この家に対してあの音をあんなにもスムーズ生み出すには、あのアイテムが必要だ。
そしてそのアイテム保有者は、俺には一人しか浮かばない。
「これって——」
「しっ!」
どうする!?
どうする俺!?
まず何をするべきか、それを思って俺が取るべきアクションは一つ。
体感で通常の108倍ほどの速さで思考した俺は、不思議そうな顔をしたロキロキの口に手を当て静かにさせたあと、即座に飛び起きてクローゼットの前へと飛ぶように移動した。
音が聞こえてからこの間おそらく3秒ほど、思考速度もそうだが、我ながらこの時の動きは音速だったんじゃないかと思うけど、今はそんなことを気にしている暇はない。
そして俺がババババっとまずパンツを履き終えた時——
「急にいいんですか?」
聞こえてきた声は、聞き馴染みのない声だったのだが——
「あれ?」
ベッドにちょこんと座ったままのロキロキは、その声を聞いて不思議そうに、小さく首を傾げていた。
知り合い、か?
そう思うと、なんだか俺も全く聞いたことない声ではないように思えたのだが、いかんせんそれが思い出せない。
だから俺はその声を思い出す作業に無意識に行動を止め、声の方に意識を向けてしまった。
「うん、大丈夫ですよ。ちょうど友達に焼き菓子もらってきたんです。せっかく会えたんですし、少しお話ししましょ?」
「でもここのお家って……」
玄関の方から聞こえてくる声に耳を澄ませると、当然聞こえてくる片方は俺のよく知った声だった。
その声の主が誰かを我が家に招いている。
その状況は察するに難くない。
だがこの丁寧な物言いの相手は、誰だ?
敬語で会話しつつも家に誘う相手って、誰だ?
全力で思考するも、俺はその声の主が思いつかなかった。
「週末は半分私も住んでるようなものですから、大丈夫ですよ。ただ、朝から家主と連絡つかないので、もしかしたらまだ寝てるかもしれないんですけど」
「え? そんな寝起きかもしれない時間に、いいんですか?」
「はい。あの人寝起きはいい方なので。なのでちょっとだけ待っててくださいね」
「はぁ……あ、でも誰かもう来てるみたいですね」
「あ、ほんとだ」
「え、このスニーカーって……」
「ちょっと待っててくださいね」
会話の相手は誰だろう。
そこに全意識を向けてしまっていた俺は、玄関からこちらに向かって動き出した足音を耳にして、そこでようやくやるべきことを思い出した。
止めていた手を動かして神速のスピードでTシャツを着て短パンを履く。これで俺の装備は大丈夫。
次は——
ベッドの上を見れば、そこには想像通り変わらぬ姿の、生まれたままの姿でベッドの上にぺたんと座っているロキロキが。
いかん! その姿はあかん!!
加速した思考と鳴り止まない脳内アラートと、近づいてくる足音が、やたらとスローに感じられたのは何故だろう。
短パンを履いた後、1秒にも満たない時の中で、俺は咄嗟にハンガーから手に取った服をロキロキに投げつけるように渡して、アイコンタクトで着用するよう指示し、それを察したロキロキがその服に袖を通そうとしたのだが——
しまったぁ!!
ガチャ——
自分の失態と絶望の音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「わっ! あ、えと、すみません! お、おはようございますっす!」
「あ……。うん、おはよう」
急な来訪者の登場に何を思ったのか、毛布で下半身をバッと隠したロキロキは、ギュッと前ボタンが閉じられていないシャツを掴みながら、恥ずかしさを隠すように元気な声で挨拶する。
その姿に一瞬目を見開いた気がする新たな登場人物は、朝から美しすぎる横顔にいつものクールな表情、ではなく、誰もが好きになっちゃいそうな笑顔を浮かべ、静かで穏やかで優しい声で挨拶を返していた。
前者はもちろん今まで一緒にいた奴で、後者が今この部屋に入ってきた奴で——
後者の声の優しさが、笑顔が、俺には最早ホラーにしか感じない。
ヤバい。これはヤバい……!
放たれているオーラから感じる覇王の如きプレッシャーが凄まじい。
だが笑顔の美女は俺の方には目もくれず、穏やかな表情をベッドの上に座るロキロキに向けている。
そうして室内には絶望に固まる俺と、俺の渡したワイシャツ一枚羽織って恥ずかしがるロキロキと、笑顔を浮かべる美人の3人という状況が訪れた。もちろんこの状況に俺はもう指先を1ミリ動かすことすら出来ないからね!
動かせるのは頭くらい。
ただその頭も現在絶賛後悔中。
なぜなら——
なぜ! なぜ俺はアレを投げたのか!
アレじゃもう完全にこの光景AREにしか見えないじゃん!
オーバーサイズのワイシャツを着た女の子がベッドの上に座っていて、それを合鍵で家に帰ってきた彼女が見つけ、にこやかに笑い合う。
ええ、どう考えてもこれは
いや、もう修羅場じゃない、これは確定的に
桃色のニットワンピースに身を包み女性は黙っていれば天使なのに。
今の俺には畏怖しか感じられない。
その笑顔は、ほんともう怖さしかないのだ。
俺はシロなのに、これは完全にクロだと確信されているような、そんな空気が凄まじい。
苦労に苦労を重ねて倒した敵が、実は第一形態でした的な、そんな絶望感が募るのみ。
ああそうか、今日が俺の命日か……。
そんなある種の悟りの中、俺は愛する人が何を口にするか、黙って待つしか出来ないのだった。
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