第381話 善意の程度は難しい

 なぜ木曜日は法定休日の曜日ではないのだろうか?

 だって木って光合成したりとか、人の心に安らぎを与えたりとか、人類社会に大貢献してるじゃん?

 その木を讃えてさ、みんなで木に感謝を捧げるため、木曜日は休日にするべきだと思うんだよね。勤労感謝の日だってあるくらいなんだから。

 

 そんな中高生のような何の意味もないことを考えつつ、俺は洗面台で手を洗いうがいをする。

 そんな俺の背後の方には、普段は常に鍵が開いているはずなのに、今は鍵がかけられた扉がある。

 扉の向こうにいるのは当然、俺が今しがた招き入れたあの人だ。

 招き入れるべきだったのか、当然そこが問題なわけだったのだが、俺は懇願するようにこちらを見る視線を無視することが出来なかった。前回の侵入時と違って、今回は良識に則った頼みだったわけだし、あの申し出は多くの人が流石に断れない、だろう。

 まぁでもあの態度だったし、今回はすぐに帰るはず……と思っている。

 トイレの水の流される音を耳にしながら、俺は彼女がすぐに帰ることを信じたのだが——


「お兄様マジあざすっ! でもあのクズマジで起きねえ、マジで後で絶対張っ倒すっ!」


 と、俺への感謝から一転、すぐに怒りの様相を見せた彼女の言葉に、俺は俺で落胆する。

 今、起きねえ、って言ったよな……?

 見れば彼女の右手にはスマホが握られ、今この時も誰かに発信しているのが画面上で見てとれた。その発信先であろう、画面上部には……『☆クズ☆』の2、いや4文字が。

 ……これ、風見さんが設定した水上さんの名前ってことだよな? ううむ……ほんと、この二人普段はどんな関係なんだ……。


「今更っすけど、お兄様ほんとごめんなさいっすっ」


 しかしその発信先の名前も画面から消えたあたりで、風見さんが両手を合わせて俺の方に腰を折り、頭を下げてみせた。

 そんな姿、今まで見せたことがなかったのに、今まで見てきた風見さんとのギャップから、俄かには信じがたい姿である。

 そんな彼女に俺はいくらかの落胆の気持ちを持ったまま、いいよいいよと手でジェスチャーしたわけだが。


「ただ、あの、2つ伝えたいことがあるんすけど……」

「ん? 2つ?」


 謝罪ポーズから顔だけ上げた後、両手は合わせたまま、風見さんらバツの悪そうにこちらを見て、何事か伝えたいことがあると言ってきた。

 その言葉に俺がクエスチョンを示すと。


「1つ目は、全然あのクズが反応しないことからもお気づきかもしれない残念なお知らせなんすけど……あのクズ、LAやってる時ノイキャン付きのヘッドホン使ってるんで、寝落ちすると、まームカつくくらい起きないんすよね」

「あー……」


 語られた1つ目の伝えたいことは、そこまで予測の範囲内を越えたものではなかった。それに寝落ちなら、眠りとしては浅いだろうし、ムカつくくらい起きないにしても限度があるはずだろう。

 とはいえ、時間が時間だし、水上さんが起きるまではうちで風見さんを休ませるべき、なんだろうか……という悩みも現れる。

 だがそれを考える間もなく——


「で、2つ目なんすけど」


 ちょっと言いづらそうなトーンで風見さんが口を開き——


「今日わたしがお兄様に迷惑かけたの、秘密にしてもらえないかなって」


 だ、そうだ。

 ……んん?


「へ?」

「や、あの、じ、実はカナさんに……釘、刺されてんすよね……『倫に迷惑かけんなよ?』ってのと、菜月と幸せそうなんだから『邪魔すんなよ』って。この前お兄様がうちのバーに来た時の、お兄様たちが帰った後に言われたんすよ。いやぁ、あの時のカナさんマジ怖だったなぁ……」

「ほお……」

「カナさんなんだかんだ、ガチ目にお兄様と別れたこと後悔してるタイプっすよね」

「いや、そんなん俺に言われても……」


 ってな感じで風見さんから秘密にしたい旨の理由が語られる。その様子から、風見さんがホントに太田さんを慕ってるのが伝わった。だったら最初っから後ろめたいことするんじゃないと言いたい気持ちもあるのだが、今回の提案に限っては、秘密にすることでだいに変な気苦労をかけないという点で、決して悪い提案ではないとも思う。

 何かされたら言って、と前は言ってたけど、あの頃は風見さんとだいの関係が回復する前のことだし、今日は別に何かされたら……っていうほど、迷惑ってわけでもないしな。

 ならばこの提案は、な。


「まぁでも、その要望は了解だ」

「マジすかっ、あざすっ」


 1つ目も2つ目も特に俺から反論もなく受け入れてもらったからか、身体を起こして風見さんの表情に笑顔が戻った。

 しかしまぁ、ほんと素直な子になったもんだ。

 そんなことを思ったのも束の間——


「二人だけの秘密っすねっ」


 意味ありげにウインクを投げかけてきながら、こんなことを言ってくる始末。いや、君そういうの太田さんに止められてるんじゃないんかい。

 しかし、秘密、か。なんかゆきむらも前そんな感じのこと言ってきたような……。そういえばあの時も……。


「つーか、迷惑かけんなっつわれてんなら、さっきの抱きついたりとか、ああいうの……」

「あっ! えっ、ダメっすよ!? それも秘密っすよ!?」

「いや、言われたこと全然守れてねぇじゃねえかって話な?」

「えー、だってほら、わたしはお兄様のこと好きなわけだし?」

「はいはい」

「うわっ、ひどっ! 流石に泣くっすよ!?」

「うるせー。っつーかお前さ、もう1時回ってるわけじゃん? ってことはだよ、俺はさっさとシャワー浴びて明日に備えて寝たいんだが」

「あっ、そっすよね。うん、流石にこの状況だし、わたしもそこは、弁えてるっす」


 ちょっとだけゆきむらのことを思い出しながら、俺は太田さんと風見さんの約束を聞く前にやられたことをつつくと、ほんと子どもみたいな反応が返ってきた。

 しかしこうも堂々と人のこと好きって言えるって、なかなかなメンタルの持ち主だよな。響くわけじゃないが、ある意味敬意に値するよ。

 

 そんな彼女に俺がもう寝たい旨を伝えると、返ってきたのは予想外に殊勝なリアクション。

 ……いや、これまでの印象がぶっ飛んでんたから、普通の反応がよく見えるだけなんだろうけどさ。ヤンキーがいいことするとめっちゃいい奴に見える論理と一緒ってことか。

 でも、まともなこと言ってくれるのは、俺としてはありがたい。


「わたしのことはいいんで、入ってきてくださいっす!」


 そう言って笑顔で我が家の風呂の方へ手を向ける風見さん。

 そりゃまぁ隣の家と間取り同じだろうからどこに何があるかも分かってるんだろうが、まるでうちのことも把握されてるみたいで複雑だなこれ。


「じゃあ、とりあえず水上さんが起きるまでは休んでてもらって構わないから、適当に横になっててくれ」

「あ、ベッド使っていいすか?」

「ダメです」

「ええ!?」

「もしそれで俺が床に布団敷いて寝たとして、誰かさんは絶対落ちてくる気がしてならないからダメです」

「えっ、なんでわたしが寝相悪いの知ってんすか!?」

「いや知らんがな。ただの予想というか、予知だわ」

「えー。そうは言っても、なんだかんだ一緒に寝てくれるんじゃないんすー?」

「太田さんに連絡いれるか」

「うわっ、たんまっ。冗談っすからっ」


 で、俺が風呂の準備をしてる間、こんな不毛なやり取りがありましたとさ。

 風見さん自身はすっぴんっぽいからもう寝る準備を終えた上で、買い物に出ようとしたのだろうか?

 さすがにうちの風呂には入れたくない、よな。俺が入るのはだいとだけ、なんだから。


 そしてそんなことを考えつつ、何も言われなかったら入るかどうかの確認をしないことを胸に誓い、俺は我が家の部屋と風呂やトイレ、キッチン側を隔てる扉を決して開けないようにキツく言い渡し、風呂へと向かうのだった。





 ブォォォォォ、とドライヤーの音が響き渡るのは、1時26分のことだった。

 ささっとシャワーを済ませ、着替え、ドライヤーに移行するまでおそらくかかった時間は10分程度だと思う。

 その間、言いつけ通り風見さんはうちの部屋の方で待機していてくれたようである。


 そして寝る支度を整えて、俺がベッドのある部屋側の方へと向かうと……。


「はや」


 適当に置いてあったのを使ったんだろうが、床置きしていたクッションを枕に床で眠る風見さんの姿がそこにはあった。

 こちら側に背中を向け、見えるのは横顔ばかりだが、なんともまぁ幼い表情で寝ていること。しかも電気もつけっぱだし、身体に何かかけるわけでもなし。

 さすがに風邪引かれたら寝覚めが悪いからと、そんな彼女に俺はそっとタオルケットをかけてあげる。

 そもそも布団だって、この前真実が来た時に用意したのがあるんだから、出してあげることだって出来たのだが……まぁ、寝ているのを起こすのも悪いか。

 熟睡じゃない方が、水上さんが起きた時にすぐ帰れるだろうし。


 そんなことを考えながら、俺は物音を出さないように動きながら、スマホの充電をし、電気を消して、一人ベッドに横になる。

 年下の女の子を床に寝かせて、俺一人ベッドを使うのはやはり何となく罪悪感が募ったが、俺とこの子の関係を思えば、それはやむを得ないことなのだ。

 そう自分に言い聞かせ、どうせ聞こえてるとは思わないが、俺は風見さんへ小さく「おやすみ」と声をかけ、長かった1日を終わらせるのだった。



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