第554話 分かっていても

 時が、止まった。

 周辺から生まれる雑音は、もう何も聞こえない。

 聞こえるのは、心臓の鼓動がどんどんと早くなっていくその音のみ。

 まるで自分一人この世界から隔離されたようだ。

 そう思うと、左側にある横開きの扉はもう二度と開くことがないように思えてくるし、右側の水槽の金魚たちは、俺を見張る番人のように思えてくる。

 じゃあ、正面にいるゆきむらは?


 ゆきむらは。

 ゆきむらは……。

 

 ゆきむらの言った言葉の意味が、頭の中でほどけない。


 今俺は何を言われた?

 俺のことが、好き?

 

 いや、そんな言葉はこれまで何回も言われてる。

 だってゆきむらは争奪戦参加者なのだから。

 でも今回は——


 正面の可愛らしい顔には、先ほどまでの緊張感が見当たらない。

 ……いや、力の入った肩に、その面影が残っている。

 今ゆきむらは、精一杯。精一杯の言葉を口にした、きっとそういうことなのだろう。


 この雰囲気は——

 この恥じらいながらも、一生懸命言葉にしてきた感じは——


「え、あ、う……はい?」


 ちゃんと答えなきゃ、そう思うのに——

 

 ゆきむらの言ってきた言葉が、浮かべる表情が、それらの意味が分かってるはずなのに分からない俺は、最早知能レベル0レベルの反応をかましてしまった。

 ここにドラ◯エの王様がいたら「ああ勇者よなさけない」って言ってくるに違いない。いや、そもそも勇者なんて呼び方は俺にはおこがましい。「っち、愚者め情けない」くらいの言われ方が適切だろう。いやまずなんだこの考えは? 今するようなことではないぞ俺。そんなセルフ分析とセルフ叱責が頭の中を駆け巡る。

 つまり絶賛大混乱の最中——


「私はゼロさんが好きです」


 しどろもどろに聞き返したまま固まった俺に、聞こえなかったと思ってくれたのか、律儀にゆきむらがもう一度言っておかわりしてくれた。


「え、あ、いや、聞こえてる! 聞こえてるけど、え?」


 そんなゆきむらの姿に、ようやく俺の語彙力がレベルを1くらい回復する。

 だが、言葉を口にしたことで落ち着いたのか、さっきまでよりも明らかに、冷静な眼差しでゆきむらはじっと俺の方を見つめていた。俺にはその視線が恥ずかしく、その目を真っ直ぐは見返せない。

 でもこうなると、通常運転のゆきむらは恐ろしく——

 

「もちろん異性として、という意味です」

「え、あ、う、うん」

「すみません、困らせましたよね。でも私の本心です」

「え、あ、いや」

「異性として、本心で、私はゼロさんが好きです」

「わ、分かった! 分かったからっ」


 畳み掛けるように放たれたゆきむらの言葉たちに、俺のHPが削られる。

 こんなどストレートにそんな言葉を投げかけられては、無防備な俺の心にはグサグサ突き刺さるだけなのだ。

 だってどんなに投げかけられて、刺されたって——


「あ、もちろんだいさんのことも好きです。だからこれは、お二人をどうこうしようという話ではありません」


 俺には応えられな……あえ?

 どうこうしようという話、ではない?


「へ?」


 じゃあこの言葉は何なんだ、そう思って俺の思考がまた止まる。

 この好きは、どういう——


「いえ、出来るならしたいのですけれど、これはちょっと言語化するのが難しいです……」

「そ、そっか……」


 あ、やっぱそういう気持ちはあるのか。

 でも、なんか違う。

 わ、分からん! え、ゆきむらなんで、今このタイミングで……?


 そしてまた脳が動くと、ぐるぐるぐるぐると思考が答えのない迷路の中を巡り出す。

 そんな俺に——


「ただ、この前ボイスチャットでお二人が話している感じを聞いて、同じ空間にいるんだなって分かって、何だかすごくモヤモヤしてしまって」

「あー……あの日か」


 ゆきむらは先週の記憶を伝えてきて、迷走していた俺の思考が立ち止まる。

 たしかにあの日、俺とだいとゆきむらのパーティを組んでボイスチャットしてたし、たしかに何回か、ゆきむらがいるのを忘れてだいと話す場面もあった。


「はい。ゼロさんがだいさんと話す声は、私には向けられたことがない声で、羨ましいと思いました」

「うん」


 そしてあの日に思った気持ちを教えてくれた。

 そうか、そういうことだった、のか。


「そう思った時に、分かったんです。これが好きってことなんだなって」

「うん」

「ゼロさんと一緒にいるのが、羨ましいなって。そばにいたいなって」

「うん……」

「この気持ちを、伝えたいって」

「そう、なんだ」


 そうか……。

 あの日がゆきむらの心に火をつけたのか。


 なんとなく、どうしてゆきむらが俺を誘ったのかがようやく分かった。

 好きってのがどういうことか、自分なりの考えが生まれたからなんだな。


「そばにいて欲しいだけじゃなくて、そばにいて、ご飯を作ってあげたり、困ったら助けてあげたり、そういう風になりたいなって思いました」

「何かして欲しい、だけじゃなくしてあげたいって思ったってことか」


 これは間違いなく、ゆきむらの成長だ。

 暴走迷走続きだった少女の、たしかな変化だ。

 それをテンパって理解できてなかった自分が、狼狽えていた自分が情けない。


「はい。でも、だから、答えを聞かせてください」

「……そっか」


 ゆきむらの真剣な眼差しを、俺は穏やかに受け止める。

 人の成長は、喜ばしい。

 むしろそれが見たくて、俺は今の仕事やってるのだから。

 でも、だから——


 この成長を手放しで喜んであげられない自分に、罪悪感が湧き上がりそうになってくる。


「はい。遠慮はいりません。これはけじめ、みたいなものですから」

「分かった」


 でも、そんな罪悪感を吹き飛ばしてしまうような太陽が、俺の心の中心にあるから。

 成長を喜べても、ゆきむらの気持ちに寄り添ってあげることは、俺には出来ない。

 俺に出来るのは——


「ごめん」


 告げた一言を受けても、ゆきむらの真剣な、いつもの可愛い無表情は一見変わらない。

 変わらないように見えたけど……俺には分かった。分かってしまった。

 出会ってから、こんな懐いてくれてたから。

 近くにいることも多かったから。

 好きだと言ってくれるから、ついつい見てしまっていた自分がいたから。

 ほとんど変わらない表情の中に現れる、小さくともハッキリした感情が、俺には分かるようになってしまったのだ。


 悲しい、苦しい。

 きっと俺のために面に出さないようにしてくれているのだろう。

 ゆきむらは優しい子だから。

 こんな時でも自分の気持ち以外を優先してしまう優しい子なのだ。


「気持ちは嬉しい。ゆきむらが好きって感情がちゃんと分かったっていうのも嬉しい。でも、ごめんな」

「……はい。ありがとうございます」


 続けた俺の言葉は、ただの言い訳だ。

 自分の罪悪感を薄めるエゴだ。

 それがゆきむらにとっては何の慰めにならないなんて分かってる。

 それなのに、うっすら涙を浮かべながら俺に「ありがとう」を言うなんて、本当にこいつはゆきむらだ。


「分かっていました」


 そして一度深呼吸した後、まだ目の端に涙を浮かべたまま、強い意志を伴った眼差しでゆきむらが俺を見た。


「当たり前じゃないですか。ゼロさんとだいさんは、好き同士だって、当たり前に知ってますし」


 そして淡々と、自分に言い聞かせるように、ゆきむら自身がこのゆきむらなりのけじめを受け入れるための言葉を告げていく。


「うん。そうだよな」


 だから俺はそれを否定しなかった。

 そもそも俺とだいにやましい関係なんか何もないのだから、これは当然だ。

 でも——


「でも、やっぱりちょっと苦しいです」

「……そっか」

「好きって……苦しいです」


 そう言って一瞬、彼女は微笑んだ。

 儚く、触れたら割れてしまいそうな、美しい顔で微笑んだ。


 そんな彼女に、もう「ごめん」は言わなかった。

 これはゆきむらが耐えて、超えていってもらわねばならない感情なのだから。


 「苦しい」、そう言って目の端に溜まった想いを頬から顎へと伝えていく美しい彼女を、俺は黙って見守るのだった。

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