第438話 残業疲れはじわじわくる

 10月14日水曜日、19時22分。

 よし、これであとはだいを待つのみ。


 キッチンから漂うスパイスの香りが、既に空腹状態の俺の胃を刺激する。

 だがまだ我慢。これはだいのために作ったのだから。

 あ、ちなみに作ったのはもちろん俺特製カレーね。

 ルーは市販のものを複数種類組み合わせものだが、野菜を煮込めば全ての栄養素がルーに吸収されるわけだし、スパイスの香りが食欲を呼び起こし、疲れた身体もすいすい食べられる、だいの要望に応えられるメニューといえばこれだろう。

 味見も終えて、準備は万端だ。


 しかし今日はなかなかに煮詰まってるみたいだな。

 チクタクと動く時計を眺めながら、俺はなかなか連絡のないだいのことを思い浮かべる。

 まぁでもまだ残業してから2時間ちょっと。多少忙しい時期にこのくらいの残業をすることはあるから、そこまで遅いわけでもない。

 でもただ待つってなると、こうも長いもんなんだな。

 LA にログインして待つか……いや、でも笹戸先生にたまには休めって言われたし、ううむ。

 

 そんなもどかしい時間を過ごし、だいからの連絡が返ってきたのは20時前、19時51分のことだった。


里見菜月>北条倫『疲れた』19:51

里見菜月>北条倫『直接いく』19:51

北条倫>里見菜月『お疲れ様!気をつけてな』19:52


 この短文を見るに、相当な疲れが見える。

 しかもたぶん、肉体的な疲労というよりは、精神的なものだろう。

 そして俺の連絡に返事がないってことは既に自転車でこちらに向かってきているということだから……よし、じゃあ俺はだいを迎える準備をするとしますか!

 連絡があっただけで高鳴る自分の気持ちを抱きながら、俺はカレーの温め直しにいくのだった。





 20時25分、ガチャっという音が聞こえ、俺は部屋から玄関へ移動した。

 そして我が家の中に仕事着であろう白シャツと黒のスキニーパンツを履いた女性が入ってきて——


「いい匂いする……」

「いや、第一声がそれかよ?」

「ただいま」

「うん、そうだよな。おかえり、お疲れ様」

「うん。疲れた」


 玄関先に鞄を落とし、まず真っ先に抱きついてきただいを抱き止める。俺に会って安心したのか、身を預けるだいは顔を俺の胸に当てながら、完全に俺に体重を預けているようで、転ばせたりしないように俺はしっかりとその身体を抱き止めた。そしてポンポンと頭を撫でてやる。

 そんな時間が、1分ほど続いたわけだが。


「お腹すいた」

「はいはい、そうだよな。いま用意するから」

「ありがと」

「いえいえ。でもあれか? うちで食うのもだいからすれば外食だし、一応外食の日としての面目は保てるかな?」

「うーん……」

「ん?」

「もう、半分は私の家だと思ってるよ?」


 いつものクールな雰囲気と異なって、疲れのせいかちょっと幼くなってるというか、子どもモードを発揮するだいに、俺は微笑まずにはいられなかった。もちろん今だいの表情は見えないから、俺の顔も見られることはない。

 見られたら、何笑ってるのよ、って言われそうだもんな。


「たしかにただいまを言う家で外食は違うか」

「うん」


 そしてこの俺んち飯は外食なのかどうか論争は、俺の完全敗北で決着する。

 でも、悪い気のしない敗北なのは間違いない。


「よし、じゃあご飯にするか」

「うん。手洗ってうがいしてくるね」

「おう」


 そんなだいの帰宅からの小さなひと時を過ごして、俺はいつもより甘えてくるだいと数時間のお家デートを楽しむのだった。











 鳴り響くアラーム音に、目を覚ます。

 朝……と一瞬錯覚し焦りを覚えるが、カーテンの隙間から差し込む光に色はない。

 つまりまだ、夜。

 止めたアラームを響かせたスマホを右手で探し、時刻を確認。23時15分。

 えっと……あー、そっか。うん、時間通りだな。

 思い出す記憶の中身は、ついさっきのことで、思い出すのにそんなに労は要さなかった。

 一緒にご飯を食べて、買ってきたデザートを食べて、お風呂も入ってしまって……疲れたと言うだいとベッドで横になったのだ。

 腕枕として差し出した左腕を枕にして、あまりにも可愛すぎる寝顔を見せるだいがいる。

 その顔から少し視線を動かせば、透き通るように白い肌の裸体と、2つの大きな膨らみが。

 その光景を絶景と言わずして、何が絶景だろうな。

 そんなことを思っていると、自分の肌に当たるタオルケットの感触すら心地よく思えてくるのだから、恋人から貰える幸福感というのは本当に強い力を発揮するのだろう。


「だい、23時回っちゃったから、そろそろ帰ろう」


 しかし、時間を確認して、時刻に先に気づいた俺にはある責務がある。

 俺は左腕はそのままに、右腕を上にするように横向きになって、だいの華奢な左肩を右手で揺すった。


「ん……」


 すると小さく可愛いらしい反応が、だいから返ってくる。

 だが、起きない。

 

 俺から言わせてもらっても、互いの愛を感じるひと時を過ごし、そのまま眠りつく幸せな睡眠だったと思う。

 身体に残る倦怠感すらも愛おしい。

 だからこそ起きるのがもったいないというか、起きたくないと思う気持ちはよく分かった。

 俺だって同じ気持ちなのだから。

 だが明日も平日。明日も明日とてお仕事なのは揺るがない。

 明日のために俺は心を鬼にしてだいを起こす必要があるのだ。


「起きなって」


 心から思ってるわけではない言葉をかけながら、俺はだいの頭の下から左腕を抜き、上体を起こす。

 そんな俺の動きに気づいたのか、だいがもぞもぞと動きだし……俺が離れた分だけこちらに近づいてきて、ピタッとくっついてくるわけである。

 ああくそ、可愛いなおい。

 でもここは心を鬼にして——


「菜月、起きる時間だよ」


 と、名前を呼びかけ、無理矢理抱き起こすと——


「さむいっ」


 と、かけていたタオルケットがなくなったことにびっくりしたのか、さっきよりもピタッとくっつくように、だいがくっついてきたわけである。

 そりゃもちろん、何も着てないもんね、寒く感じちゃうよね。

 俺からすれば直に触れ合う温もりが心地よいのだが、これは俺が寝起きの頭だからこそ。もちろんだいの二つ山もくっついてきているから、幸福度が抜群に高い。


「ほら、でももう帰らないと」

「うー……」


 くっついてくるだいの肩にタオルケットをかけてあげながら、俺は何とか起床を促すが、その表情は明らかに「帰りたくない」を訴えていた。

 しかしここは年上彼氏の俺がしっかりしなければならない場面だろう。


「明日頑張れば、また明後日会えるからな? ほら、頑張ろうぜ」

「……うん」


 そしてようやくだいも頭が起きてきたのか、俺の言うことに頷いてくれる。

 こんなに可愛いんだから、俺だって帰したくないけど、そうはいかないから。


 そしてお互い服を着て、だいは帰り支度を、俺は送り自宅を整えていると——


「あ」


 スマホの画面を見るだいが、短く声を上げる。

 その声に俺も反応し、表情を窺えば、そこにあったのは明らかな焦りの色。

 その声と表情に、俺が近寄りどうしたのかと尋ねるより早く、だいの口が開き——


「完全に忘れてた……」

「何を?」


 その時の表情は完全にもう、しまった、という、何か過失をしてしまった時の表情になっていた。


「土曜日、姪っ子のお誕生日会なんだった……」


 おおう。

 そうして、だいのスマホの画面が俺に向けられる。

 そこには——


お姉ちゃん>里見菜月『久しぶり、菜月元気? 17日の真琴たぶん姪っ子だろうのお誕生日会だけど、お兄ちゃんが◯◯◯⚪︎◯幼女向けアニメの変身セット買ってくれるみたいだから、菜月がまだプレゼント買ってないんだったら、被らないように菜月はサン◯オの白い犬シナ◯ンのぬいぐるみにしてくれると嬉しい!よろしく!』


 と、明らかに参加しないという選択肢はないお誕生日会のお誘いが書かれていた。

 これは、うん、お誘いというより招集、だよな……!


「これはそっちに行くしかないだろ」

「……だよね。ごめん……」

「いやいや、俺たちの集まりは月一くらいでできるけど、姪っ子の誕生日は年一じゃん? 可愛がってあげてきなって」

「……うん、ごめんなさい」

「いやいや、だからな?」

「ごめんね」


 と、明らかに落ち込むだいを慰めつつ、俺は話題を変えるために姪っ子の写真を見せてもらったら、そこにはお人形のように恐ろしく可愛らしい女の子の写真が写っていた。

 そしてそれを俺が「だいに娘が生まれたら同じくらい可愛いんだろうな!」とか、超絶大絶賛することで、ようやくだいが満更でもない様子に変わっていき、何とかだいの気を逸らすことができ、23時32分、俺は無事に我が家を出て、だいを家まで送り届けることが出来たのであった。

 

 

 

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