第138話 メルチだった乙女、出会う

 一冬の間、お世話になった姉様の家を出る。悲しかったけれど、戻ってきてもいいと言われたから、踏み出す勇気が持てた。


「……行ってきます」


 そう、もう一度口の中で呟く。去年の春は、あの城から出るとしても結婚して出ていくのだと思っていた。夏にお父様がおかしくなって、秋に出した難題を解決されて、冬に家を飛び出して──ここまで、来てしまった。いくらお母様に似てるからって、実の娘と法を歪めてでも結婚しようとするお父様の側にいることはできない。


「チェリーの風のする方の……森?」


 かすかな甘い匂いのする方に進んで、よく手入れされた森の中まで来た。風が運んでくるのは甘い香りだけではなく、薄いピンク色の花びらもだ。そちらへそちらへと歩いてみると、葉の代わりにピンクの花びらをつけた大きな一本の木に辿り着く。チェリーの木は、かつて本で見たように本当に花でいっぱいになっていた。こんなことを去年の私は知らなかったし、あのままであれば知らずに無数の春を過ごしていただろう。


 少し、休憩をしよう。そう思って木にもたれていると、柔らかな風が頬を撫でた。方角から見ても、魔女の庇護を求めて冬の日に駆け込んだ森とここは別のようだ。けれど、単に違う森だからではなく、春だからではなく、私は森という場所が恐ろしくなくなっていた。


(城の近くにあって、昔、家族とピクニックをした森とは全然違いましたものね)


 姉様は、聞けば森のことを教えてくれた。本当に詳しいのは山のことだと言いながら、木のことや獣のこと、手入れをしていることも教わった。あの時あんなにも冬の森が恐ろしかったのは、私が無知だったからだ。念入りに手入れされた優しい森しか知らず、生える木も違っていたから。ここも城の森とは違うけれど、まだ怖くない。知識を得たから。


「ここで出会いがあると言っていたけれど、一体いつのことかしら?」


 採取をしていた時に姉様から聞いていた、食べられそうな木の実をもいだりしてみる。春先の少し暖かい陽気の中と、占いを聞いたからか、何もかもいい方向に転がるような気がしていた。


「わんっ! わんわんっ!」


 そうやって休憩していた私に、一頭の犬が盛んに吠えかかる。千の毛皮をわけてもらった外套を着ている私を、狩の獲物だと思ったようだ。よい毛並みは、どこかの城か貴族の犬の証。でも、私のいた家にはこんな犬はいなかったから、他の家の犬だろう。


「おーい、鹿でも見つけたのか? ……ハンス、何をそんなに吠え、て……」


 私の国とは違う紋章のついた服を着た、美しい青年が森の奥から来て私を見た。その時、悟る。

 ああ、きっと私は魔女にならないだろう、と。

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