第189話 クロスステッチの魔女、昔語りを読む

 グレイシアお姉様とのお話を終えて、改めて本のページをめくる。本は誰かが書かないと作られないもので、だから、誰かの筆跡を特に感じるタイトルのページを見るのが好きだった。私のように読むことに不慣れな人に向けてか、本文の文字はとても丁寧に綴られている。その分、タイトルの文字に書いてくれた人の心が見える気がしていた。


「これは、私の知らないお話みたいなのよね」


 山間の田舎では、物語は貴重な娯楽だ。語り部の婆様や旅の吟遊詩人が、物語を語り聞かせてくれる。きちんとやるべき家事をやってさえいれば、私も物語を聞くことは許されていた。この本に収められている魔女の古物語のいくつかは、細部こそ違えど聞いたことがある。お師匠様は物語を読む、と言うけれど、私には今でも物語は『聞く』ものだった。だから、語り部の婆様のような人の声を思い出しながら読み始める。


『湖の底の国。これは古き魔女の一人が、私に語り聞かせた昔話。

かつて偉大なる糸紡ぎの大魔女ターリア様が現れるよりも昔、とある小さな国があった。魔女に名前を、人間に存在を忘れ去られ、今となっては湖の底に眠れる国。さあ、語りましょう』


 誰かの語りを書き取る形の文章の方が読みやすくて、自然と物語に引き込まれていく。静かな部屋の中で、頭の中に物語る声だけが響いていた。


『その国に輝ける財宝はなく、国土も狭い。されど国にはいつも、民の笑顔があった。国の中には魔法使いさえ居場所があり、人々とその力で助け合っていたとされる。土は滋養に溢れ、森は数多の獣を養ってなお余りある実りをもたらし、水辺では魚がうまいものから美しいものまで泳いでいた。輝かしい小さな国は自分から他国に攻め入るようなことはせず、兵士は猟師と変わりない。迷える民を受け入れ、国はさらに富んだ』


 指先で文字をなぞる。魔法使い、という言葉に一瞬止まりかけたが、思い出した。ターリア様とお裁縫の一門に加わらなかった、《外れ者》の古い言い方だったはずだ。


『小さいが平和な国には当時、寛容なる王と、美しい王妃、かわいらしい姉姫と、幼く聡明な弟王子がいたという。遠い他国からわざわざ、姫を輿入れさせるほどにこの国は優れていた。国の教え、国のまつりごとは、周辺の国がこぞって真似ては失敗していた。それは、民の一人一人も優れていたからである。

人々は自分達の幸せがこの先も、とこしえに続くと信じて疑わなかった。』


 そこまで読んだところで、小さく呻くような声が聞こえる。眠い目を擦って、ルイスが起きてきていた。

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