第336話 クロスステッチの魔女、名前のことを教わる

「それで――あんたの方から、改まった顔で頼まれることは大体ろくでもないけど、なんだい?」


 途中に余計な言葉が挟まっていた気がするけれど、否定はしづらかった。独り立ちして早々に言いつけを無視してルイスを買ってきたし、その前の修行時代も色々と思い出深い。色んな意味で。お師匠様もそうだろう、『こんなとんでもない弟子は初めて』って何度かぼやいていたし。

 とにかく。お説教が一区切りして、お師匠様の方から水を向けてくれたのはありがたかった。私は、ルイスの夢に引き込まれて見たものの話をする。いつの間にか春が過ぎていて夏になっていたという実感を、まとわりつく暑い空気で感じていた。


「お師匠様、《名前消し》で名前を奪われた子は、記憶もその名前で培った心も、すべて失うんですよね?」


「ああ、そうだよ。何も《ドール》に限った話じゃあない。人間も、魔女も、元の名前を奪われてしまえば失うものはある。おさらいだ、下の魔女が名乗ることを禁じられてる理由は?」


「ええと……危ないからです。名前を握られて、そこから呪いをかけられてしまうことがあるから」


 だから私は、まだキーラと名乗ることは許されていない。けれど、これは名前を奪われたわけではない。


「じゃあ逆に、上の魔女はどうして名前をつけているのだと思う?」


「えーっと……もう呪いへの対処もできるようになってるはずだし、同じような名乗りの魔女が増えるから、でしょうか」


 四等級は自分のお師匠様の家かその近くにいることが多いから、同時期同門に同じような名乗りの魔女が複数いるという自体が普通起こり得ない以上、その名乗りの魔女は一人だけだ。でも三等級以上は全員が組合で仕事を受けたりようになるし、混同を避けるために必要らしい。そういえば、私は私と同じクロスステッチの魔女に会ったことがない。名前だけは、時折聞こえてくるのに。


「それもそうだけど、もうひとつあってね。元の名前を忘れて、名乗りと役目だけに囚われると問題が多いことがわかったのさ。まあ、メルチが成りたがったみたいに、魔女って駆け込み聖域に近いところあるからね。そういう奴でも、親なりなんなりから授かった最初の自分の名前を忘れちまうとまずかったんだ。自分が好きだったこと、自分が嫌いだったこと、大事なもの、そういったことを取り零す。《ドール》の《名前消し》も、そういうものさ」


 名前は、案外大事なものらしい。キーラという名前に今まで書きやすいくらいしか考えたことなかったけど、そうでないとは意外だった。上の魔女は皆、自分をしっかり持ってると思ったから。

 興味深い話だったからこそ、疑問だった。名前を奪われたあの心は、どうして残ってしまっていたのだろうか。

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