第154話 中古《ドール》、夢の中に沈む
あ、夢だな、と最初に思った。目の前にはマスターと違う、女の手が伸びてきている。その手はまるで陶器のようにヒビが入っていて、僕はでもそれをあまり驚かなかった。視界は半分しかない。体は上手く動かない。でも、不思議とそれがいつも通りのような気がしていた。
『××、』
違う名を呼ばれる。違う、僕の名前はルイスで、クロスステッチの四等級魔女様の《ドール》だ。僕はそんな名前ではないし、あの人以外の誰の《ドール》でもない。例え僕が、他の誰かの手からマスターの手に渡ったとしても。
『これがいいと思うのよ。美しかったものが、壊れていくこと。それが美しいと、どうして皆はわからないのかしら。ねえ?』
ノミを持った手から逃げるために、必死に走った。しばらく走ると、冷たい風が頬を叩く。一瞬、鋭い光が僕の目を焼いた。
—――暗い視界、重い雪が肌に触れる。それがひどく寒くて冷たくて、でも、僕の着ているものは薄くて貧相で、寒さを防ぐことは全然できない。足も裸足だった。マスターの靴がここにあれば、暖かくなれるのに。前はもっと、いい靴を履いていたはずなのに。今は何もない。お腹もすいた。見上げてみた空は重い黒雲が立ち込めていて、雪が沢山降り注いでいる。周囲の建物も暗くくすんだ色をしていて、どの扉も重く硬く閉ざされていた。
「ゆめ、だから、早く、醒めないと」
僕がいるべき場所はここではない。その想いが強く強く僕の身を焼く。でも体が疲れていて、重くて、気がせいているのに全然動けない。でも、もっと恐ろしいものがきっとこの後に来る予感があった。さっきのも、これも、まだ悪夢ではない、と。
「マスター……早く、マスターのところに戻らないと」
でもそれとは別に、戻るべき場所がある気がした。思い出せないけれど。僕はとにかく闇雲に歩いて、この夢から醒めようとした。早く目を醒ましたい。眠り込む前は、そうだ、マスターとお花見をしていたはずだ。どうして僕はお花見を知っているんだろう。
春の暖かい陽気に戻したい。マスターが膝の上に乗せてくれて、優しく撫でてくれた手の元に。戻れるはずだ。だってこれは夢なんだから。気になることは、少しだけある。
(さっきのも、この光景も、僕は知りません。どこから来た景色なんでしょうか)
まったく僕が知らない景色。僕が知らない声。僕がマスターと出会う前、ルイスと名付けられる前の記憶の欠片。
『ルイス、』
知らない人が僕の名を呼ぶ。でも、それと同時に、薄暗い裏路地の一角からマスターの歌う声が聞こえて来た。ああ、僕が目指すべきは、行くべきはマスターの方だ!
『若君様がお召しになるよな
柔い綺麗な糸になれ』
マスターの歌声を聞きながら、目を覚ます。春の光景にひどく安堵したけれど、もう夢が何だったのか思い出せなかった。
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