第382話 クロスステッチの魔女、温泉に向かう
「ニョルムルの温泉で優雅に冬を過ごす、ああ、どうしてもっと早くにこれを思い付かなかったのかしら!」
目的地がない旅も楽しいけれど、行き先に楽しみが待っているとわかっている旅も楽しいものだ。山も国もいくつか越えるような長い旅に、残りの秋はまるまる移動になる想定であった。後に話に聞こえてはいたけれど、今まで行こうという発想にならなかった理由は、単に遠いからであった。
「温泉……温かいお湯が出てくるお風呂のある場所でしたっけ。それだけで街が成り立つって、どんな場所なんですかね」
「私も話に聞いただけだけれど、ニョルムルの街は九割が宿屋で、残りは宿屋に物を売る店だという話よ。温泉が大きいから町で管理して、そのお湯を街中の宿で引いてるんですって。あと、ゆで卵と蒸しパンがとってもおいしいらしいわ」
温泉の湯気を使って蒸すから、卵も蒸しパンもとてもおいしく仕上がるのだと、そんな話を聞いたことがあった。あれは私にしては珍しく、人間だった頃の話だ。山々を歩き回る《風の民》が来て村の浴場に入った後、そんなことを言っていた。村は豊かではなかったけれど、温泉は珍しかったらしく、行商人の中にもこれを楽しみにしていた人がいた。住んでる人たちでは入りきれないような温泉とはどのようなものか、まったく想像がつかなかったことを覚えている。
「ルイス達にはまだ、経験がなかったわね。《ドール》の体でお湯に浸かるのは良くないかもしれないけど、蒸しパンは一緒に食べられるわよ」
「わぁい!」
「楽しみですね、マスター」
「楽しみー!」
《ドール》達も乗り気で、旅は楽しく進んだ。長い旅だったから、途中で路銀や食べ物を買うために働くことにもなった。魔法で人間を手伝ったり、魔女組合で仕事を少しさせてもらったりして。
「ニョルムルの温泉街ねえ、ここから結構あるわよ?」
「でも、一度行ってみたくて」
「それはいいことだと思うわ。若いうちの特権だもの」
私に報酬を払いながら、そこの魔女組合の魔女は「もう一度行きたいわねぇ」と呟いた。
「行かないんです?」
「そうなると、ここの仕事を誰かに長々代わってもらわないとだからね。頼めばやってくれるかもだけど、どうしても腰が重くなっちゃって」
大人ってそういうものよ、と、私より年下の見目をした魔女が笑って言った。そんな魔女と別れて、ある程度は地図と大きな鳥になった《探し》の魔法を参考に北を目指した。故郷の山を通ることはなさそうで、安心もしている。
寒い方へと、居心地のいい冬を求めて。
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