第391話 クロスステッチの魔女、温泉に浸かる

 髪と体を普段よりたっぷり削り取った石鹸で洗うと、泡を落とした後でも全身から石鹸のいい匂いがする。洗い流すのに使った温泉の湯は熱々ではなかったものの、逆に私には丁度いい温度だった。


「……流石に調子に乗って使いすぎたかしら。まあ、ここで石鹸を色々試してもいいものね」


 自分にそう言い聞かせながら、私は今回の本番――温泉の湧く浴槽へと手をかけて、足先からゆっくり入った。これはルイス達に不用意な波を起こさないためというのもあるけれど、単に人間だった頃の癖だ。あの地はとても寒かったから、いきなり温かい湯に全身を沈めると痛いくらい熱く感じる。それで体の弱いものは倒れることもあるからゆっくり入れと、誰かに教えられた記憶が残っているのだ。落ち着いて外に出た今、時折、そんな記憶が胸によぎる。でも、帰ろうとは思わない。


「ふ――――っ……気持ちいいわねぇ……」


 全身をじんわりと温める、薪で沸かしたのとは違う温もり。川や湖の水を沸かすのでは、ダメなのだ。この濁りと匂いと熱とが、私の心と体をほどいていく。ふちに顎を乗せて、浴槽の中でゆっくり足を伸ばして力を抜いた。体がふわりと浮かぶ感触も、久しぶりだ。


「マスター、お風呂は楽しいですか?」


「ええ! やっぱり、この街に来てよかったわ」


 温泉は湧いている地から持ち出すのが難しいとのことで、遠くまで広まることは魔女がいてもあまりない。それにそもそも、お湯に浸かって体を洗うのが水の豊富な東の方と温泉の湧いてるあたり特有の習慣らしいのだ。ニョルムルは自分たちが当たり前に楽しんでいる温泉が他の人には珍しいということを知り、最初にこれを商売にした街だと言われている。小高い丘の上程度の立地も幸いして、ニョルムルには今でも商売敵があまりいない。確かに私の故郷でもし同じことをやろうとしても、そもそも温泉の湧いてる村に辿り着くまでの山登りが大変なのだ。それを思うと、ニョルムルは幸運だった。


「あるじさま、この湯気を浴びてるだけで、なんだか汚れが落ちる気がします」


「国によっては熱い煙を浴びるような浴場もあるからねー……あそこもよかったなあ」


 前に行った公衆浴場のことも思い出す。あれはよかった、また入りたい。どのあたりにあったのかを思い出さないと、行くのは難しいかもしれないけれど。


「アワユキはどうー?」


「べしょべしょになったよ! でも楽しい!」


 ふかふかだった毛皮が濡れて小さく見えるアワユキの姿に、つい私は笑ってしまった。

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