第629話 クロスステッチの魔女、おいしいお魚を食べる

 酒場『大熊と林檎亭』に入ると、夕食には少し早い時間とはいえ、酒場はもう営業していた。私たち以外にはお客がなく、酒場の人々の会話が一瞬止まる。


「お魚が食べたいんだけど、まだ早かったかしら?」


「まあ、今から焼くんでお時間はもらいますね。何を食べられますか?」


「今日この街に来たの。一番おすすめを頂戴」


 クマのように大柄な店主が、飲み物の入った木のジョッキを持ってきてくれた。彼はへにょりと困ったような顔をして、私に聞いてくる。


「当店自慢の林檎水でさあ。ところで魔女様、小さいお連れさんにも小さいの用意した方がいいですかい?」


「ええ、もらえるなら嬉しいわ」


 頷いた店主が奥に戻り、給仕が持ってきたのは、かわいい絵のついた明らかな子供向けの小さいジョッキだった。私と大差ない年齢の彼女は、林檎水をルイス達に三人分置いた後、声を潜めてこっそり教えてくれる。


「この小さな子供向けのジョッキ、実は店長の手作りなんです。絵もあの人が描いたんですよ」


「これを!?」


 小さな林檎の花の絵がついた、白木のジョッキはそれでも三人……特にキャロルには大きすぎるようだった。それでも心づかいが嬉しくて、私達は楽しく料理が来るのを待つ。キャロルには前に買っていたキャロル用の大きさのジョッキに、林檎水を汲んで渡した。


「ただの水じゃなくて果実水ってのもいいわよね」


「すっきりしていておいしいです」


 そういえば、店に入る時に大きな林檎の木が隣に生えているのが見えた。きっと、あの林檎を使っているのだろう。あの林檎の木と店主で、『大熊と林檎亭』なのだと思うとおかしくて、私は楽しみに料理を待つことができた。


「お待たせしましたー、当店の一番人気! 白身魚の甘辛林檎ソース焼きです!」


「おおー!」


 林檎と香辛料の香りと、温められたパンの小麦の匂い。それらが一緒に机に載せられると、食欲をそそった。パンはライムギか何かが混ぜ込んであるようで、ちぎると断面からも白い湯気が上がる。私がルイス達にもパンや魚を分けてやることを見越してか、取り皿もついているし、魚も大きめだった。ご厚意に甘えて、魚とパンを三人にも分ける。


「これは……いいわね」


 バターをつけて少しパンをかじってから、魚を食べる。ふんわりとした白身魚に香辛料と林檎の複雑なソースの味がして、パンに魚を少し切って食べるとこれもまたおいしかった。


「おすすめされただけあるわね。これ、最高!」


「本当においしいです、マスター」


 ルイス達もにこにこと笑って、楽しい食事ができた。

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