第693話 クロスステッチの魔女、備えを考えてみる
「備えろ、かあ……」
いつになく暖かい懐。大金をカバンに収めて、魔女組合を辞した私はなんとなく街の方に飛んでいた。元々、糸を納めたら細々としたものを買い足すため、街に行こうとは思っていた。ただ、あの時考えていたのは日用の物を買ってちょっといいものを買って帰ることであり、謎の警告を受けて一足もふた足も早い冬支度をするためではない。
確かに、籠っている間に夏はほぼ終わり、秋の気配がしている。飛び越えてきた木々の中にも、葉を色付けようとしているものはあった。あの村なら、すでに冬の備えを始めている頃だ。……単に、冬以外すべてを使って冬の備えを作るような暮らしだっただけだけれど。
「マスター、街で何か買われるんですか?」
「お肉とお魚かなー……何をするにしても、まず、しっかり食べたいから」
「備え、とやらはいいんです? キーラさま」
「私達が不用意に、人間の備えを持っていってしまってはいけないの。私達は薪がなくても魔法で暖が取れるけど、人間から薪を奪ったら凍死しちゃうからね」
それはお師匠様の教えであり、私自身が決めてやっていることだった。薪が欲しいから、森の木の一部を切って乾かせばいい。箱庭に入らなくて家のすぐ近くで育つに任せている、魔法の木々辺りを切ろうか。あれらはよく砂糖菓子を砕き混ぜた土に枝を挿してやれば、面白いくらいによく育ち増える、せっかちな魔女のための木だというし。
それから《パン作り》の魔法を刺繍するにも、何を作るにも、魔綿糸は必要だ。今は全部差し出してしまってすっからかんだから、帰ったら魔法で綿を育てなくてはならない。水汲みは、みんなにも手伝ってもらうべきだろう。いつの何に備えなければいけないかわからない以上、このまま冬に突入してもいいようにしておくべきかもしれない。
「うん、やっぱり今食べたいお肉とかお魚とか、あとお野菜かな。あ、それとチーズ! チーズも欲しいね。まあ、備えのことは一応内緒にして、普通に買い物をしようか」
魔女が言うからには何かあるのだろう、と思われても、具体的なことを私も知らないのだ。迂闊に備えのことは言えなかった。考えもなしに、街を混乱させたくはない。
「そういえば、ラトウィッジは市場に行くのは初めてよね。はぐれないように、誰かと必ず手を繋いでおくのよ」
「はあい、キーラさま」
まだ街に入ってもいないのに、ラトウィッジはそう言ってルイスと手を繋いだ。かわいすぎるなあ、と思いながら、街の門に辿り着く。
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