第5話 令和元年5月11日(土)「初めてのお泊まり」日野可恋

「いらっしゃい」


 ひぃなを出迎える。つば広の白い帽子をかぶり、刺繍の入ったシャツにキュロット、その上からフロントボタンのワンピースを羽織っている。カジュアルだけどセンスの良さを感じる私服姿だ。昨日は部屋着に着替えたひぃなを見たけど、着飾るほどに彼女の愛らしさが映えてくる。


「ひとりで来たの?」と問うと「お姉ちゃんが送ってくれた」と答えた。安藤さんはスイミングスクールだそうだ。私が迎えに行くべきだったと反省する。


 ひぃなの小柄な身体には不釣り合いな大きさの布製のバッグを抱えている。それを持ってあげる。見た目より軽い。恐らく着替えがいっぱい入っているんだろう。昨日はひぃなの部屋のクローゼットを見せてもらったけど、衣服の量と質には驚かされた。


 私の部屋へ案内する。お見舞いに来てもらった時はリビングで応対したので初めて入ったもらった。


「うわあ、大きいね」


 ひぃなが目を見張っているのは部屋にドンと置かれたダブルベッドだ。飾り気がなくて女の子の部屋には似つかわしくないけど、寝込むことの多い私にとって最も身近な家具がベッドだった。引っ越しの時に新調したお気に入りだ。


「ちょっと寝てみていい?」


 私が笑って頷くと、ひぃなは羽織っていたワンピを脱ぎ、恐る恐るベッドに横たわる。私の身体に合わせて波打っているのでひぃなにはちょっと寝にくいかもしれない。それでも、「すごい!」「全然違う」と感想を述べている。


「おじいちゃんに買ってもらったら?」


「いくらぐらいするの?」


 私が値段を言うとひぃなは固まった。私がお茶を淹れて戻って来ると、「もうずっとここで暮らせばいいや」とベッド上でゴロゴロしていた。


「ほら、起きて。勉強の時間だよ」


 ひぃなは上体を起こし、「ホントに勉強するの?」とのたまう。「昨日言ったじゃない」「そうだけど……」と不満そうだが、ベッドから降りて小さな白いテーブルの前のクッションに座った。鞄から勉強道具を取り出し、ノートや試験の答案を私に見せた。


 私はそれにざっと目を通す。


「小学校の時はできてたの?」


「うーん、テストはそこそこかなあ。苦手意識が強くなったのは中学になってからだけど」


 私はインターネットで拾ってきた算数の少し捻った問題を出してみた。ひぃなは計算はちゃんとできるし、解法のパターンに沿った問題も解けている。でも、解法のパターンがパッと見で分かりにくい問題は苦手そうだ。案の定ひぃなは問題を前に頭を抱えうめき声を上げだした。


「数学はコツコツやっていきましょう」と言って、算数のそれぞれの単元の基礎的な話をする。初歩の初歩だけど、それがキチンと自分の頭の中にイメージできているか確認する。ここを疎かにするといつまでも数学が苦手のままだ。


 1時間みっちり勉強すると、ひぃなはぐったりしている。


「普段の勉強の10倍くらい頭使った感じがする」


「計算解いたり、パターン通りに答え出すだけならそんなに頭使わないからね」


「可恋って人に教えるの上手いよね」


「ありがと。理屈っぽく考えちゃう性質だからかな」


「わたしは何でも感覚でやっちゃうからなあ……」


「でも、それがひぃなの良さでもあると思うよ」


「うーん」とひぃなはテーブルの上に突っ伏した。


「一休みしたら、買い物行こうか。食べたいもの、なんでも作ってあげるよ」


 しかし、乗ってこない。相当疲れてるみたい。ちょっとやり過ぎちゃったかと後悔した。


 私は立ち上がり、ひぃなの横に行くと、「じっとしててね」と言って横座りのひぃなの足を持ち上げ、上体も抱えていわゆるお姫様抱っこをする。軽いので楽々だ。そのままベッドに運んで寝かせる。


「ちょっと休むといいよ」


「うん。10分だけ……」と言ってひぃなは目を閉じた。




 夕方になって、ひぃながむくっと起き上がった。まだ寝ぼけているようで周りをキョロキョロ見ている。


「起きた?」


 ようやく状況が分かったのか、「ごめんなさい!」とベッドから転がり落ちた。「慌てなくていいよ」と起こしてあげる。


「どれくらい寝てた? わたし」


「2時間弱かな」


「そんなに! ほんと、ごめんなさい。昨夜はワクワクしてあんまり眠れなかったから……」


「大丈夫だよ。買い物行くけど、来れる?」と聞くと「すぐに着替えるね」と私の目の前で服を脱ぎ出す。昨日もそうだったけど、同性の前での着替えは全然平気なようだ。


 私は既に着替え終わっていた。ひぃなが寝続けていたらひとりで買い物に行こうかと思っていた。でも、その前に目を覚ましてくれてよかった。私はTシャツにパンツ、ジャケットという軽装だが、ひぃなは淡い黄色のワンピースにくすみピンクのカーディガンという可愛らしい出で立ちだ。


 ひぃなが日焼け止めを塗る背後で、私は彼女の髪をブラッシングする。寝癖はついていないようで良かった。


「大丈夫だとは思うけど、わたし、紫外線に弱いの」とひぃなが言う。もう夕方なので私は塗っていないけど、ひぃなは手慣れた様子で持参したクリーム塗っていた。


「これからの季節は紫外線が憂鬱」とため息交じりにひぃなが零した。ひぃなの日本人離れした白い肌は確かに日焼けに弱そうだ。「すぐ水ぶくれできちゃうのよ」と愚痴が止まらない。


「大変だね」と頭をぽんぽんと叩いてあげる。ひぃなが帽子をかぶってようやく出掛ける準備が整った。外はまだ暑い。


「何食べたい?」と尋ねると、「可恋が作ってくれるものならなんでもいいよ」と一番困る回答。角度を変えて、「苦手なものはある?」と聞いてみる。ひぃなはしばらく考えた後で、「特にはないけど、しいて言えば魚かな?」と答えた。


「じゃあ、魚料理ね」


 ひぃなが頬を膨らます。その頬を指でつつく。


「可恋はどうなの? 食べられないもの、ある?」


「そうだね、納豆はダメかな」


「あー、関西の人って納豆食べないって聞いたことある」


「最近ではそこまで嫌われている感じじゃないけど、祖母曰く昔はかなり嫌われてたんだって」


「そうなんだ」


 本当は手の込んだ料理を作りたかったけど、時間が足りないのでひぃなの希望に添ってキノコたっぷりパスタをメインにすることにした。


 買い物から帰ると急いで準備を始める。ひぃなが「手伝うよ!」と言うので「普段何を手伝ってるの?」と聞くと、「……料理はやってない」と小声で答えた。家の手伝いは掃除を任されているからと言うひぃなにはサラダだけ任せた。


「「いただきます」」


 ふたりが声を揃えてそう言って、顔を見合わせて笑った。ひぃなと二人っきりの食事は初めてだ。ひぃなは外見は子どもだけど、相手をよく見ているし、さり気なく気を遣ってくれる。私は他人といると、たとえそれが母でも、色々と考えてしまい、気を回してしまって疲れてしまう。ひぃなとは仲良くなるにつれてそういう気疲れを感じなくなってきた。頼りすぎてはダメだけど、少しくらい甘えても受け止めてくれる感じがした。


「ごちそうさまでした」


「お粗末様でした」


「片付けはわたしがやるね」と先にひぃなが立ち上がる。それを見ながら、うちのシンクだとひぃなにはちょっと高いよねと考える。次までに踏み台用意した方がいいかな。


 食後は私は筋トレ、ひぃなには以前教えたスクワットをしてもらう。


「毎日じゃなくていいんで、もう少し筋肉つけましょう」と彼女の腰を支えながら指導した。「あと、もう少し動物性のタンパク質を摂った方がいいね」


「お肉?」


「肉や魚ね」と言うと「気を付ける」と苦笑した。


「お風呂はひぃなが先に入ってね」


「気を遣わなくていいよ」


「その髪だと乾かすのに時間掛かるでしょ。だから」


「分かった」


 ひぃながお風呂に入っている間、私は筋トレの続きをして待つ。ひぃなはピンクのパジャマ姿で出て来た。肌が赤く上気している。さすがに色っぽいという表現はできないが、愛らしさは3割増しになっている。


 替わって私がお風呂。カラスの行水とまでは言わないけど、普段から私はかなり短い入浴時間で済ませる。お風呂から戻ると、ひぃなはまだドライヤーを当てていた。私は客間にある予備のドライヤーを持って来て自分の髪を乾かした。


「ごめんね、時間掛かって」と謝るひぃなに「気にしないで。それより、私にもいじらせて」とブラッシングを買って出る。


「可恋は髪伸ばさないの?」


「自分のは面倒じゃない」と笑う。「ホント、それ」とひぃなは長い髪の不便さを語り出した。でも、その表情から自分の髪を気に入っていることも分かる。


 9時になった。あくびが出る。


「ひぃなは眠れそう? いつもより早い時間だろうし、お昼寝もしていたし」


「平気。ってか、わたしも眠い」と笑う。


 ダブルベッドはふたりが並んで横たわってもスペース的には余裕がある。身体が触れ合う訳じゃないけど、そこに人が居るという感覚は何かくすぐったいものがある。


「おやすみなさい」


「おやすみー」


 私はベッドの灯りを消した。

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