第95話 令和元年8月9日(金)「襲来」日野可恋

 昨日と同じ今日、今日と同じ明日で良いと思っていた。

 自分の思い描く一日を実行していく、その積み重ねだけで十分だと考えていた。

 死ぬその時まで、悔いなく過ごせればいい。

 他人に煩わされることなく、自分のやりたいことだけを最優先で。

 本気でそんな風に私は思っていたのだ。

 彼女と出会うまでは。


 昨日は賑やかな一日だった。

 横浜で買い物をして、ひぃなの家ではパーティ、最後にうちでお泊まり会。

 今年の春休みはおろかゴールデンウィークだって、こんなイベントはひとつとしてなかった。

 その頃の私なら、この騒がしさから逃げることばかり考えていただろう。

 ひぃなと出会い、加速度的に仲が良くなるにつれて、私の日常は劇的に変わった。


 そのひぃなは私にしがみついて寝ている。

 寝る前はあんなに恥ずかしそうにしていたのに。

 彼女を起こさずには自分が起きられないので、ひとつ息を吐いてから彼女の名前を呼んだ。


「ひぃな、起きて」


「うーん……、……可恋、……」


 寝言が聞こえたが、彼女の名誉のために聞かなかったことにする。


「ほら、朝だよ」


 肩を揺すると、ようやくひぃなが目を覚ました。

 私にしがみついていたことに気付くと、慌てて飛び起きた。

 あたふたと「ごめん」と謝るひぃなに、「おはよう」と挨拶する。


「気にしなくていいから」と私は笑って起き上がる。


 朝の挨拶に続けて何やら言い訳を並べるひぃなを残して、顔を洗うために私は部屋を出る。

 その扉を開けた先に、人の気配があった。

 この家に他にいるのは母だけだが、この朝の早い時間にわざわざ扉の前に立っているとは思えない。

 私はその不審者に向かって回し蹴りを放ち、叩き込む……直前で寸止めした。


「危な。相変わらず野蛮なやっちゃなあ。それでも女の子かいな」


 聞き覚えのある甲高い声。

 はっきりと分かる大阪弁のイントネーション。

 私へのこの態度。

 そこに仁王立ちしていたのは、私の祖母だった。


「おはよう。いつ来たの?」


「ゆうべ遅くにな。昨日まで東京におって、今日来る予定やってんけど、驚かしたろ思て」


 祖母が豪快に笑う。

 私はこめかみを押さえてしまった。

 祖母は70歳を超えてるがとても若々しい。

 まだ働いているものの、それはほとんど趣味のようなものだ。

 そして、稼いだお金であちこち旅行している。


「なんや友だちが泊まりに来てるんやて? 大阪におった頃はそんなことあらへんかったのに、えろう変わったもんやなあ」


 祖母の大声に気付いたひぃなが顔を覗かせた。


「おはようございます」と軽やかな笑顔でひぃなが挨拶する。


「おはようさん。えらい別嬪さんやなあ」とひぃなを褒めると、「ええ子そうやん。こっち来て1年も経たんうちに、こんなええ嫁さんもろうて、意外と手ぇ早いやんか」と私を茶化す。


 私は祖母の言葉を無視して、「こちら、私の祖母」とひぃなに紹介し、「こちら友だちの日々木陽稲さん。あと、もうひとり泊まってるけど、その子は日本語を話せないから」と祖母に説明する。


「もっと親しみ込めておばあさまとか言われへんのかいな。『祖母』みたいな他人行儀な言い方やったら、まだババアの方がマシとちゃうか」と祖母は私に文句を言う。


「日々木陽稲です。よろしくお願いします。可恋さんにはいつもお世話になっています」とひぃなはかしこまってお辞儀をする。


「よろしくな、陽稲ちゃん。そやけど、ホンマに別嬪さんやんか。どや、このおばちゃんと芸能界目指さへんか?」


「まだ朝5時過ぎたところで、そんなテンションに誰もついて来れんから」


 祖母につられて大阪弁混じりに私はツッコミを入れる。

 しかし、祖母を押しとどめようとする私に「ほら、あんた、顔を洗いに行くとこやろ。さっさと行ってき」と逆に追い出される形になった。


「祖母の話は、話半分どころか真実は3パーセントくらいと思って聞いておいて」とひぃなに伝え、仕方なく洗面所へ向かった。


 これから朝の稽古に行かなきゃいけないし、祖母をずっと監視していられない。

 話した内容は後でひぃなに聞いて確認し、嘘や大げさな表現は修正しておかなくては。


 戻って来ても、扉の前でふたりは立ち話をしていた。

 ひぃなは目を輝かせて話を聞いている。

 祖母は話し上手で、水滴一滴分の真実からプール一杯分のストーリーを紡ぎ出してしまう。


「ひぃなも顔を洗ってきたら」と促して、ふたりを引き離す。


 ひぃなは普段とは違った目で私を見て、「行って来ます」と離れて行った。

 いったい何を吹き込んだんだか。


「お客さんなんだから、せめて顔を洗うまで待ってから出て来てよ」と祖母に注意すると、「もうそんな色気づく歳になったんか」と笑われてしまった。


 私はいらついた気持ちを隠さずにキャシーを叩き起こした。

 私のベッドで幸せそうに眠るキャシーに八つ当たりをした形だけど、こんなに騒がしいのにのうのうと眠ってるキャシーが悪い。


 キャシーを祖母の前まで連れて行き、『祖母よ』と紹介する。

 祖母にも「キャシー・フランクリン。私と同じ歳で、いまこっちに空手を習いに来てるの」と寝ぼけたままのキャシーを紹介する。


『グランマって呼んでいいわよ』と祖母が堂々と英語で話した。


 上手いとか流暢とかではないが、発音は悪くない。

 日常会話くらいなら十分に通用しそうな英語だった。


「英語話せるの?」と私が驚くと、『この子、日本語話せないんでしょ。だったら、英語を使いなさい。毎年海外旅行をしてるから、ちゃんと勉強してるのよ』と自慢げに祖母が答えた。


『知らなかった』と言うと、『あんたたちが家を出て独り暮らしに戻ってから、英語と韓国語を習いだしたの。せっかく旅行に行くんだから現地の人と話せたら楽しいでしょ?』と祖母が笑う。


 祖父は早くに亡くなったと聞いている。

 祖母と一人娘の母は、母が大学生の頃から別れて暮らしていた。

 母は結婚し、離婚とほぼ同じタイミングで私が生まれ、その私が障害を抱えていた。

 ひとりではどうしようもなくなった母は、祖母を頼り、一緒に暮らした。

 私は祖母の家よりも病院に入院している時間の方が長かったくらいだけど。

 ただ、祖母と母はぶつかることも多かった。

 結局、私が10歳になる頃に母と私は新しい家に移った。


 私も祖母が苦手で、離れて暮らすようになると極力関わらないようにと思うようになった。

 それでも私が病気になったり、母が忙しかったりした時はどうしても祖母に頼らなくてはならなくて、いろいろと無理を言ったと思う。

 私も母も普段は祖母のことを迷惑がっていたのに、実際は便利に利用していた。

 祖母はそれを分かった上で助けてくれていたと思う。


『可恋、この子、何て言ってるの?』


 もの思いにふけっていると、祖母に呼ばれた。

 キャシーの英語は早口な上スラングが多く、相手のことをまったく気にせずに話すので慣れるまで大変だ。

 海外旅行ならネイティブじゃない相手だと気を使ってもらえたりするだろうが、キャシーに気遣いという言葉は存在しない。

 だが、このふたりの通訳はやりたくない。

 大人っぽい外見に反して、中身のない子どもっぽい話しかしないキャシーと、話を盛り上げるために嘘八百を並べることも辞さない祖母の会話なんて、聞いてるだけでも苦痛なのに通訳なんて苦行以外の何ものでもない。

 祖母には『頑張って慣れて』と言い、キャシーには『いつも言ってるように相手が理解しているかどうか見て話して』と注意して、後は好きにさせることにした。


『着替えて来る』と私はふたりに告げて自分の部屋に入る。


 朝からなぜこんなに疲れてしまうのか。

 それでも稽古に行く準備を急ぐ。

 稽古をしている間だけは余計なことを忘れていられる。


 部屋から出ると、ひぃなが戻って来ていた。

 ひぃなが適当に間に入ることで会話が成り立っている。

 こういうところもコミュ力の高さなんだろうか。


『キャシー、行くよ。急いで準備して』と呼びかけると、『今日はヒーナのジョギングに付き合うことにした。グランマも一緒に行くんだ!』と嬉しそうに答えた。


 どういう話になっているのかとひぃなに視線を送ると、『今日はみんなでジョギングして、ここに戻ってみんなで朝食にしようって』と教えてくれた。

 キャシーは朝の稽古は参加を許されていないので見学だけだからそれも良いだろう。


『じゃあ、私もこっちで食べるね』とひぃなに伝える。


 最近はキャシーの稽古を午前中に行うので、朝食は道場で摂ることが多かった。

 家と道場を行ったり来たりすることになるが、仕方がない。

 こんなに世話を焼く性格じゃなかったのにと思っていると、「少しは成長したんやね」と祖母にしみじみと言われてしまった。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学2年生。綿密な計画を立てそれを遂行することに命を懸けている。予定を狂わす存在は大嫌い。ただ、母や祖母に鍛えられたので臨機応変さは身に付いた。


日々木陽稲・・・中学2年生。真面目なので計画を立てちゃんとやりきるが、行き当たりばったりも好き。


キャシー・フランクリン・・・14歳。計画? なにそれ美味しいの?


日野富江・・・可恋の祖母。ゴールデンウィークは韓国旅行をした。旅行以外の趣味は韓流ドラマやスターの追っかけ、ボランティア活動など。


日野陽子・・・可恋の母。可恋に言われていちばん嫌な言葉は「祖母そっくり」。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る