第390話 令和2年5月30日(土)「母と姉妹」里中宣子

 私は優秀な姉と自分をいつも比べていた。

 学生時代からいまに至るまで、常に心の片隅に姉の存在があった。

 娘ふたりを持つ母親という同じ立場になり、子育てに奔走する中でも比較してしまうことを止められなかった。


『どうしたらいいか分からなくて……』


 これまで子育ての相談は近くに住む実母に頼ることが多かった。

 懐が深く面倒見が良い母は共働きの私たちの育児を何かと助けてくれた。

 1年前にその母が交通事故で亡くなり、私は大海にポツンと放り出された様な心境に陥った。


 遺された父は、男子厨房に入るべからずといった世代ではなかったお蔭か若い頃に独り暮らしの経験があり母の死後もなんとか家事をこなしている。

 とはいえ母の存命中は母任せだったからいろいろと不備も多い。

 毎週土曜日に私が様子を見に行くようになり、今日も顔を出してきた。

 札幌は真夏並みの暑さとなり、大急ぎで夏を過ごすための準備をした。


 いつもであれば夕方に帰宅すると長女の香波が次女の桂夏の面倒を見ている。

 そのあと夕食作りの手伝いをしてくれる。

 しかし、今日は桂夏がひとり居間でテレビを見ていた。


「お姉ちゃんは?」と尋ねると、桂夏は私を見上げて「寝ているみたい」と答えた。


 心配になってすぐに娘たちの部屋に足を運ぶ。

 休校となり生活リズムを崩す子どもが多いと報道される中で、香波は従姉の陽稲ちゃんたちを見習って毎朝ジョギングをしている。

 昼間はこの春から通う私立中学のオンライン授業を受けたり、妹の世話をしたりととても真面目に過ごしている。

 それだけにこの時間に寝込んでいるとしたら相当具合が悪いのではないかと思ったのだ。


 電気がついておらず薄暗い部屋の中、香波は二段ベッドの下の段で掛け布団の上に寝そべっていた。

 左手の前腕を顔に当てているので表情は見えない。

 私はゆっくり近づいて「香波」と声を掛ける。

 ピクリとも動かず、返事もなかったが、眠っている様子ではなかった。


 私は床に膝立ちになり、娘の顔をのぞき込む。

 右手を香波の額に当て、「どこか痛い?」と尋ねる。

 熱っぽさは感じない。

 娘はほんのわずかに首を横に振った。


「何かあった? 桂夏や友だちと喧嘩した?」


 私の問い掛けに、同じように首を振る。

 決して無口な子ではないが、昨年は母――彼女にとっては祖母――の死を胸に抱え込み、その辛い思いに気づいてあげられないことがあった。

 初潮の可能性も考慮していたが、聞く限りそれでもないようだ。


「晩ご飯、何か美味しいものを買ってきてもらおうか?」


 気分転換に家族で外食に行ければいいが、まだ札幌は新規の感染者が出ているためその選択肢は取りづらい。

 いまから連絡すれば夫の帰宅時に何か買って来てもらうことはできるだろう。


「……食べたくない」


 香波はそう言うと、私に背を向けた。

 育児は母任せにしてきたところがあったので、香波相手にここまで手を掛けされられた記憶はほとんどない。

 この子は良い娘であり良いお姉ちゃんだった。

 それだけに焦りにも似た感情が湧くのを抑えられなかった。


「準備はしておくので、食べたくなったらいつでも来ていいからね」


 私はそう声を掛けて部屋を出た。

 居間に戻り、妹の桂夏に最近の姉の様子を聞いてみた。


「何日か前から元気なかったよ」


「何か言ってなかった?」「心当たりはある?」と矢継ぎ早に質問したが桂夏は何も知らないようだった。


 夫が帰宅しても香波は出て来なかった。

 夫も様子を見に行ってくれたが、何も話さなかったようだ。

 私も何度か部屋の中をうかがった。

 声を掛けても返事はない。

 3人での夕食を済ませ、私はふーっと息を吐いた。


 お母さんがいれば、と頼りたくなってしまう。

 それが私の弱さなのだろう。

 夫とも話し合うが原因が分からなければ対処はできない。

 困り果てた私は姉を頼った。


 事の経緯を説明すると、『おにぎりでも作って持って行ってあげたら』とアドバイスされた。

 そういえばよく母に作ってもらった。


『羨ましかったのよ。あなたが塞ぎ込むと、お母さんはすぐに心配して親身に寄り添おうとするでしょ。私はそんなことしてもらった覚えがないから』


 私は『えっ!』と驚きの声を上げた。

 母は優秀な姉と出来が悪い私を分け隔てなく平等に扱ってくれたと思っていた。

 姉さんがそんな風に思っていただなんて初耳だ。


『責めている訳じゃないのよ。子どもはひとりひとり違うのだから完全に平等なんてあり得ないし、子どもから見えるものと親から見えるものは違うっていまなら分かるからね』


 私自身ふたりの娘を平等に扱っているつもりだが、手が掛からない長女の香波より3つ歳下で手が掛かる桂夏の方にどうしても視線は向きがちだ。

 それが塞ぎ込んでいる原因かどうかは分からないが反省材料であることは間違いない。


『香波ちゃんはとても良い子だから、自分の気持ちを伝えて怒られたり心配を掛けたりしたくないんだろうね。そこをちゃんと伝えてあげればいいんじゃない』


 私は『ありがとう』と感謝を伝えながら、さすが姉さんと思わずにいられなかった。

 お祖母ちゃんっ子だった香波のことだ。

 母が生きていれば素直に話してくれたんじゃないか。

 私は香波にとって母ほど無条件に信用されていないのかもしれない。


『人間、近すぎると見えないこともあるからね。周囲の人の力を借りることも大切なことよ。私はそれに気づくまでかなり時間が掛かったもの』


 そう語った姉さんに、原因を聞き出すよりもちゃんと食べてお風呂に入ってしっかり眠るといったルーティンを大事にした方が良いと忠告を受けた。

 母も何があったかなんて聞かず、ただどっしりと構えていてくれた。

 そんな母の愛情を受けて私は育ったのだ。

 私がオロオロしていてはダメだ。


 アドバイスに従い、自分で握ったおにぎりとお茶を香波のところに持って行った。

 ただ「お腹が空いたら食べなさい」とだけ言って置いてきた。

 しばらくして見に行くとお盆の上は空になっていた。


「お風呂、一緒に入ろうか?」と微笑みかけると、赤い目をした香波は「いい。ひとりで入る」と答えた。


 ちゃんと返事をしてくれたことにホッとする。


 寝る前になって香波が私のところへやって来た。

 もじもじしながら「あのね……」と切り出す。

 私は何を言われても受け止めようという心づもりで娘の言葉を待った。


「……学校に行きたくないと思ったらこの辺が」と両手で自分の胸を押さえ、「とても苦しくなったの」と、とても重大な秘密を告白したような顔で香波は語った。


「そっか。お母さんもね、学校に行きたくないって思って苦しくなったことあるよ。お母さんのお母さん、香波のお祖母ちゃんが手を握って話を聞いてくれたのよ」


 そう言って私は香波の手を握る。

 とてもしっかりした香波だが、その手は子どもらしくとても小さかった。




††††† 登場人物紹介 †††††


里中宣子のぶこ・・・札幌在住。昨年のGW前に母を交通事故で亡くした。


里中香波かなみ・・・長女。4月に私立中学に入学したばかり。


里中桂夏けいか・・・次女。小学4年生に進級した。


日々木実花子・・・宣子の実姉。関東の大学に進学後実家を離れて暮らしている。現在は神奈川在住。

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