第550話 令和2年11月6日(金)「ずっと一緒に」須賀彩花
「帰ろっか」
曇ってはいるが外はまだ明るい。
蛍光灯のついた教室内の方が暗さや冷たさを感じてしまう。
わたしはそんな思いを振り払うように綾乃に声を掛けた。
先日優奈から男子とつき合う練習をしろと言われた。
その練習相手となったのが綾乃だ。
それから2週間ほどになるが、特にめぼしい変化があった訳ではない。
いつも通り学校では一緒にいるし、塾も一緒に行く。
受験勉強の合間に交わすSNSの内容もたいして変わっていない。
唯一の違いはふたりだけで帰るようになったことだった。
ダンス部を引退したあとは美咲を含めた3人で帰ることが多かった。
それが先週から美咲は優奈とふたりで帰るようになった。
もしかしたらダシに使われたのかもしれない。
美咲と優奈がふたりで過ごす時間を増やすために、わたしに綾乃とつき合えと言ったのかも……。
でも、その気持ちは痛いほど分かるので批判する気は毛頭なかった。
わたしと綾乃は同じ高校を目指しているので、高校でも一緒にいられる可能性がある。
しかし、あのふたりは……。
わたしだって綾乃と別の高校に進むと決まっていたら、もっと綾乃と一緒にいたいと思うだろう。
まあ、いま以上に一緒にいるなんて同居でもしない限り無理っぽいけど。
わたしと綾乃が階段を下りていくと校内の雰囲気が一変する。
3年生の教室が集まる一角は息を潜めたように静かだったのに、そこから出ると騒がしい学校の日常があった。
実際にはわたしたちの教室だって帰り間際にお喋りをしている生徒はいたが、声のボリュームやトーンが抑えられていた。
人によって高校受験への向き合い方は違うだろうが、この重苦しい空気と無縁ではいられないようだった。
グラウンドの方から音楽が聞こえる。
おそらくダンス部だ。
3年生は年度内に授業を終わらせる必要があるため時間割がほかの学年とは違う。
1、2年生はとっくに放課後になって部活に精を出しているのだろう。
ほんの2ヶ月ほど前まではわたしもそうしていた。
1年程度のダンス部生活だったが、とても充実した日々だった。
懐かしさや戻りたい気持ち、終わったんだという思いといった様々な感情がわたしの心の中に渦巻いた。
「身体ってすぐに鈍っちゃうよね」とわたしは2ヶ月前と同じように踊れるか身体を動かすイメージを浮かべながら呟いた。
「彩花は高校でも部活に入るの?」
「どうだろう。目の前の受験のことに精一杯で、入ったあとのことは全然考えていないや。綾乃はどう?」
「……私も同じ」
「そうだよね」と相づちを打ちながら、わたしは自分が高校生になった姿を想像する。
正直、中学と高校で何が大きく変わるのかよく分かっていない。
小学生から中学生になる時はその大きな変化に不安でいっぱいだった。
勉強は教科ごとに先生が変わり、定期テストがある。
部活や学校行事も本格的なものになっていく。
そして、いちばん大事な友だち関係がどうなるか。
そんな不安は中学生になって薄れていったもののハッキリ拭い去れたのは中学生活が半分を過ぎた辺りだろう。
……時間は掛かってしまったけど、ちゃんと中学生になれたんだ。
その経験があるからか、いまはあの時のような不安はない。
綾乃もいるし。
わたしは隣りを歩く小柄な少女に視線を向ける。
彼女はそれに気づくと「何?」とわたしを見た。
「綾乃と一緒ならどこへ行っても大丈夫かなって」とわたしは微笑んだ。
「私も彩花と一緒なら……」と言って綾乃は身を寄せてくる。
わたしはふと立ち止まる。
幸いあたりに人の気配はなかった。
わたしは綾乃と正面から向き合った。
綾乃は赤らんだ顔で上目遣いになる。
世界がここだけ切り離されたかのような一瞬の静寂が訪れた。
この前のように綾乃の瞼がゆっくりと閉じていく。
それを真剣な顔で見つめながらわたしは――
「綾乃、痩せたんじゃない? ちゃんと食べているの?」と大きな声で問い詰めた。
ほんのわずかだが余分な弛みが一切ない彼女の頬が更に細くなっている気がした。
目を開けた綾乃は残念そうな顔で「この頃ちょっと食欲がないの」と答えた。
わたしは「大丈夫? 健康管理は受験生の基本だよ。どこか痛いところはない? 眠れなかったりしない?」と心配になって畳み掛ける。
「お母さんが……」と綾乃は言いにくそうに口を開く。
彼女の母親は休校期間中に娘を外に一歩も出そうとしなかった人だ。
心配の余りだったにせよかなり行き過ぎだとわたしは感じた。
「健康食品にハマって、そればかり食べさせようとするの」
綾乃はそう言うと悲しげに目を伏せた。
病気じゃないと分かって安心は安心だが、綾乃の様子を見ていると笑って済ませられるかどうか分からない。
健康食品で健康を損なうなんてシャレにならない話だ。
「自分でご飯を作ったり買ったりしたら?」と言うと、「お母さん、そういうの嫌がるから」と綾乃は答えた。
そういえば子どものことをすべて管理しようとする母親だった。
綾乃によれば、健康になる頭が良くなると言われて毎日のように夕食にその健康食品が出るらしい。
美味しければまだ我慢できるがかなり壮絶な味だそうで、想像しただけで食欲がなくなるとのことだった。
ダイエットには良いかもしれないが、綾乃には必要ない。
彼女はパンなどを買ってこっそり食べていると話すが、それだけでは健康に良いはずがない。
「塾のあと、うちに寄って何か食べればいいよ。あとでお母さんに頼んでおくから」
「……悪いよ」と遠慮する綾乃に、「綾乃が心配でわたしが勉強できなくなったらどうするの? それにいまのままだと綾乃の勉強だって……」とわたしは口調がキツくなるのを抑えられなかった。
「本気でつき合っているって言うのなら、わたしのお願いもちゃんと聞いて欲しい」
わたしは必死だった。
もしこんなことで同じ高校に行けなくなったら……。
「分かった」
綾乃は申し訳ないという気持ちと安堵感とがない交ぜになったような表情で頷いた。
その顔を見てわたしもホッと息を吐く。
それにしてもほかの家族、一緒に暮らす父親や姉は何も言わないのだろうか。
そんな疑問を尋ねてみると、父親は元から仕事仕事という人で家に寄りつかなく、姉の方もこの家から抜け出すためにアルバイトを掛け持ちするようになったそうだ。
そのため余計に母親の気持ちが綾乃に向き、支配的にあれこれ口出しをしているみたいだ。
「わたし、綾乃を守れるように強くならないとね」
わたしがそう決意を口にすると綾乃は複雑な感情を宿した目でこちらを見上げた。
優奈や美咲、日野さんに比べるとわたしじゃ頼りなく見えるのだろう。
いまはまだ。
すぐには無理でもいつかきっと……。
わたしは微笑みを浮かべて手を差し出す。
そして、そのまま綾乃の手を取ると彼女に声を掛けた。
「帰ろっか」
††††† 登場人物紹介 †††††
須賀彩花・・・3年3組。元ダンス部。優奈たちから男子とつき合う練習と言われて綾乃とつき合うことになった。口づけをしたかどうかは……秘密。
田辺綾乃・・・3年3組。元ダンス部マネージャー。男子とつき合う練習だったら相手を守ろうという決意は必要ないと思うが、もちろんそんなことは口にしない。
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