第643話 令和3年2月7日(日)「学問の神様」小野田真由美
春のような陽差しが降り注ぐ境内には多くの参拝客の姿が見られた。
真剣な顔でお参りしている人々の大半は受験生の親族だろう。
一方、梅の観賞をしに訪れている人やこの陽気に誘われるように散策にやって来た人もいるようだ。
私が中学3年生を受け持つ年はこの時期に必ず天満宮に詣でた。
神様など普段はまったく信じていないのに、最後は神頼みをしてしまう。
どんなに万全の備えをしていても不測の事態は起こりうる。
怪我や病気、家族の不幸、遅刻や交通をめぐるトラブル、名前の書き忘れやマークシートのミス……。
長い教師生活の中で様々な出来事を経験した。
受験絡みでも数多くの信じられないような悲喜劇に遭遇した。
その結果、合格祈願というよりも無事に受験を終えて欲しいと祈ることが多くなった。
学校を去り1年となるが、昨年度教えていた生徒たちはこの春高校進学を迎える。
藤原先生や日野さんから時折彼ら彼女らの近況を聞いている。
いまの3年生たちが卒業するまでは教師としての自分を完全には過去にできないのかもしれない。
現在私は教育支援を行うNPOに在籍している。
教師は公平を求められるため勉強ができない生徒にばかり手を掛けていられない。
最近は勉強ができないことが本人の怠慢によるものだけではないという理解が進んでいるものの、それでも十分な手が差し伸べられているとは言い難い。
定年後にそうした活動に参加する予定だったが、いくつかのきっかけからまだ余力のあるうちに転職しようと決断した。
天満宮から少し歩いたところに個人経営の小さな喫茶店がある。
そこの若いマスターは私の所属するNPOの支援者のひとりであり、私の教え子でもあった。
開店してから数年しか経っていないのに店の雰囲気は何十年もこの地にあったかのような趣だ。
レトロを売りにしているが、それが成功しているのかどうか私には分からなかった。
日曜の午後、店内に客はふたりだけ。
カウンター席にひとり、二人掛けの席にひとり。
その二人掛けにいた客が私を見るなり立ち上がって深々と頭を下げた。
「お久しぶりです、小野田先生」
「もう先生じゃありませんよ」
私は彼女の対面の席につく。
彼女は私が腰掛けたのを見てから着席した。
アルバイトの男の子が注文を取りに来た。
NPOが支援をしてきた子のひとりで、いまはここでアルバイトをしながら通信制高校で学んでいるそうだ。
私はブレンドコーヒーを頼み、彼がカウンターに戻るのを見送ってから正面に座る女性に視線を向けた。
「お忙しそうですね」と声を掛ける。
目の前の人物は着こなしたスーツを身につけ、休日という空気を一切感じさせなかった。
外資系に勤めていた時も身を粉にするように働いていたようだが、転職したいまも変わってはいないようだ。
「それだけの報酬をいただいておりますので」
彼女は私が初めて担任を受け持った時の教え子だ。
非常に優秀で手が掛からない生徒だった。
当時の私は問題行動を起こす子どもたちにかかり切りで、授業以外で彼女に教師らしい指導をした記憶がない。
それだけに大学生になった彼女から連絡を受けた時は驚いた。
『両親が離婚して姓が北条になりました。将来のことで相談をしてもよろしいでしょうか?』
彼女は大学の指導官に気に入られ、大学院への進学を勧められていた。
それがキャリアとしてプラスになるかどうか迷っているとのことだった。
中学教師の私には荷が重い相談だったので、知り合いを紹介した。
結局彼女は大学卒業後に外資系の会社に就職し、その後私立高校の職員として高級で招かれた。
相談があったあとは年賀状をやり取りする程度の関係だったが、彼女が高校に勤務するようになってからは今日のように会って話をすることがあった。
アルバイトの少年がコーヒーを運んできた。
私が「ありがとう」と言うと、照れた顔をして彼はカウンターに戻っていく。
「日野さんとはどうですか?」
日々木さんが臨玲高校への進学を希望していると聞いた時は不安を抱いた。
2年生で彼女を私のクラスに入れたのは彼女のご両親とよく話し合うためだった。
北条さんを通じてこの高校の内実をほかの教師よりも知っている。
日々木さんがひとりで通うにはリスクが高いと私は思っていた。
だが、日野さんが臨玲への進学を決めたことで私も方針を変更した。
日野さんに北条さんを紹介することで日々木さんを守りやすくしようと考えたのだ。
私が教師を辞めたことでそうした動きをしやすくなった。
北条さんにも渡りに舟だったようだ。
学校改革を進めるのに優秀な生徒の存在は大きな力となるということだった。
「怖いですね」
彼女はそう言うと、左手でマスクを右の耳だけ外し右手でティーカップを口に運んだ。
そして、優雅な手つきでマスクのゴムを右耳に掛ける。
私は「失礼」と言ってマスクをマスクケースにしまってコーヒーを啜った。
再びマスクをつけた私は「そうですね。私も怖かったです」と白状する。
彼女は私が担任を受け持つ3ヶ月前に転校してきた。
3学期は体調不良でほとんど登校しなかった。
情報不足を補おうと転校前の中学校の教師から彼女のことを聞き出したが、クラスの活動に無関心で友だちとの関わりは消極的だという程度のことしか得られなかった。
そこで彼女を学級委員にしてみた。
成績以外も優れていることはすぐに分かったが、彼女は私の想像を超える力の持ち主だった。
暴走したら私にも手に負えるかどうか分からない恐怖感が常にあった。
敵だと判断したら容赦なく手段を選ばずに叩きのめす実行力が彼女にはある。
「私のボスが彼女から敵と見なされないか心配しています」
その声は切実で、本気で警戒していることがうかがえた。
北条さんは優秀だから日野さんを侮りはしない。
彼女のボスである臨玲高校の理事長にも同じような優秀さを期待したいものだ。
「非常勤講師の件ですが……」と彼女が申し訳なさそうに口を開く。
「その件は何度もお断りしました」と私は遮るように断言した。
中学教師を辞めてから何度か北条さんから臨玲に来ないかと誘われている。
条件は破格で、NPOの活動を継続しながらでも良いと言われた。
しかし、子どもたちに対して中途半端な向き合い方はしたくなかった。
日野さんへの保険という意味合いもあるのかもしれないが、それは北条さん自身が相対するべきことだろう。
「そうですか。残念です」
カランカランカランとドアに取り付けられたベルが鳴り、二人連れの客が入って来た。
落ち着いた雰囲気の店内には似合わない少し派手な高校生くらいの女の子たちだ。
それまで静かだった店内が彼女たちだけで騒々しい空気へと変わる。
普通のお客さんなら眉をひそめるところだろうが、私は懐かしさを感じていた。
「そういえば……」
深刻な話をするムードではなくなったので、かねてより疑問に思っていたことを聞くことにした。
私は「卒業後に北条さんから相談をされるとは思ってもみませんでした。どうして私だったのですか?」と質問する。
「いまだから話せますが、小中高の連絡先が分かったすべての担任の教師に連絡を取りました。その時に親身に対応してくださった方のひとりが小野田先生でした」
彼女らしいと思う一方、そんなものかという思いもある。
少なくとも彼女にとって私は特別な恩師ではなかった訳だ。
教え子たちの将来を知ることは一種の答え合わせのように感じている。
自分がやってきたことはどうだったのか。
迷い悩み苦しんだ末の判断は正しかったのか。
しかし、それらは教師の思い上がりなのかもしれない。
教師自身が考えるほどの影響力はなく、子どもたちは自分の力で成長していくものだ。
「中学生の頃は周りから可哀想な子だと見られることが嫌でした。大学生になるとそう見られることも武器になると知りましたが。小野田先生は常に普通に接してくださったので感謝しています」
当時宮本という名前だった少女は荒んでいると前の担任から報告を受けていた。
小学生の頃に親がリストラに遭い、裕福な暮らしから転落したのが原因とされた。
私の目からは歯を食いしばり懸命に生きている少女の姿が見えた。
気には留めつつも彼女の方から助けを求めてくるまでそっとしておこうとその時の私は判断した。
「そう言ってもらえるとホッとしますね」
神ならぬ人の身ではすべての判断を間違えないということはできない。
それだけに判断の結果を知りたいと願ってしまう。
私は他人から欲がないと指摘されるが、本当は欲まみれだ。
もっと良い教育がしたいし、もっと多くの人にもっと質の高い学びの場を与えたいと思っている。
教育の成果も見たいし、それらを多くの教育者に伝えたい。
学問の神様になれるものならなってみたい。
それほど欲深な人間なのだ、私は。
††††† 登場人物紹介 †††††
小野田真由美・・・元中学教師で現在はNPOに在籍している。昨年度は可恋や陽稲の担任を務めていた。
北条・・・臨玲高校の主幹。理事長の右腕として知られ校内の改革を担っている。
日野可恋・・・中学3年生。大学生に匹敵する学力のみならず、NPO法人で代表を務めるだけの実務能力を有している。
日々木陽稲・・・中学3年生。祖父の希望で臨玲高校への進学を決めた。類い希な容姿の持ち主。
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