第642話 令和3年2月6日(土)「希望」日野可恋
『さすが可恋ちゃんやね』
『褒めたって何も出ませんよ』
私はノートパソコンを操作しながらヘッドセットのマイクに向かって発言した。
電話の相手はNPO法人”F-SAS”で共同代表を務める篠原アイリスさんだ。
『それにしても、なんでこんな選手の足を引っ張るようなことを言うんやろな。アホなうちかて、ちょっと考えればアカンて分かるのに』
『いくつか理由が考えられますね。トランプ前大統領のようにあえてポリコレに反する発言をすることで仲間内の共感を集めたり、ほかの人には言えない発言をする自分が凄いと勘違いをしたり……』
私が淡々と理由を並べるとアイリスさんの溜息が耳に届いた。
彼女はバレーボールの日本代表に選ばれ東京オリンピックに出場することを目指している現役のプレイヤーだ。
まだ若いので3年後のパリ五輪を目指すことも可能だが、スポーツ選手は怪我など不測の事態が起きることをよく知っている。
短い選手寿命のうちに何回オリンピックのチャンスがあるのか考えれば、何としてでも東京オリンピックは開催して欲しいと思っているだろう。
自国開催なのだから尚更。
『いまやれることをひとつずつやっていくだけやって自分に言い聞かせてはいるけど、先が見通せんのは辛いね』
普段ほとんどネガティブな態度を見せないアイリスさんでも今回の失言は堪えたようだった。
組織委員会会長の差別発言は国内のみならず海外にまで広く報道されている。
東京オリンピック・パラリンピック開催に国民の支持が集まらない中での今回の事態だけに逆風となるのは避けられない。
『昨年延期が発表されたかのは3月24日でした。再延期や中止を判断する場合もその辺りがデッドラインになると思います』
東京オリンピック・パラリンピックを目指す選手何人かから話を伺った限りでは、世界全体が大変な状況だから中止になっても仕方がないという意見が多かった。
むしろいまの宙ぶらりんである状態の方が辛いと言われたのが印象に残っている。
開催を信じて練習に励んでいても心のどこかに不安が残ったままでは練習に打ち込めない。
それを言い訳にはしたくないとみな口を揃えるが、実際のパフォーマンスにメンタルが及ぼす影響は計り知れないものだ。
『うちより大変な人はいっぱいいるんやから、みんなの期待に応えられるスーパーなアイリスちゃんになれるよう頑張るわ』と最後は彼女らしいポジティブな言葉で締めくくった。
『それではF-SASとしてこの文言で発表します』
失言に対するF-SASとしての抗議文をこのあとインターネット上で公表する予定だ。
女子学生アスリート支援を目的とするNPO法人なだけに何の反応も示さないという訳にはいかなかった。
私が叩き台を作り、共同代表の篠原さんや理事の鵜飼さんたちと話し合いを重ねて抗議文を完成させた。
F-SASの職員であればどのような議論が行われ、どのように文言が修正されたのかクラウド上で見ることができる。
最終的には全職員から意見を募り、それも反映させて完成した。
『あとのことはよろしくな』と軽い口調でアイリスさんが承認し、私は抗議文の掲載とトップページの修正を行った。
F-SASは育成年代の女子アスリートがメインターゲットであり、正しいトレーニング理論や適切な栄養摂取の方法などの普及がメインテーマだ。
同時に、学校や地域クラブ等を舞台にしたセクハラやパワハラ、各種健康問題、最近だと性的な意図をもった選手の撮影などの社会問題も扱っている。
いまだに被害を受ける側にも問題があると捉える人たちが一定数いるので、アスリートを守るための活動は手が足りない状況が続いていた。
……トレーニング等は動画作って定期的にアップすればいいのだけど、社会問題系の相談に対応するのは1件1件に人・時間・コストが掛かるのよね。
弁護士に相談して裁判でけりをつけるのが最適だが、残念ながら日本ではそれを躊躇う人が多い。
内々に解決しようとすれば相手の誠意に頼らざるを得ず、被害者側が不利となるケースが多発する。
特に学校では生徒が声を上げにくい環境になっている。
その後の学校生活を考え泣き寝入りしたり、学校や教育委員会がもみ消しに動いたりと闇を感じさせる報告も受けていた。
ひと休みしようと自室からリビングに行くと、自分のノートパソコンとにらめっこしていたひぃながこちらを向いた。
昨日入院中の母親と面会した彼女は帰ってきてから少し元気がない様子だった。
「お茶、淹れるね」と声を掛けると、「お願い」と言ってノートパソコンを閉じる。
今日はオレンジペコの紅茶を2杯分淹れることにする。
お湯を沸かしてポットやカップを温め、いつもの手順で準備していく。
デザートは昨日スーパーマーケットで買ったチョコのムースだ。
私は見映えを気にしないので安っぽいカップに入ったままのそれを小皿に載せた。
ソファーの前のアクリルテーブルにトレイで運び、並べたカップにポットから注ぐ。
この瞬間の香りが紅茶の醍醐味だ。
私が紅茶の香りを堪能している間、ひぃなはムースをプラスチックのカップから小皿に移そうとしていた。
ムースの上にデコレーションがされているので、そのまま皿の上にひっくり返すのではなく一旦フタの上にひっくり返してから皿に載せるつもりのようだ。
私は「先に食べるね」と言ってカップを手に取った。
華菜さんが作ってくれるデザートに比べれば味は落ちるが、チョコの香りがかぐわしい。
ひぃなは真剣な顔で慎重に作業をしている。
上手くフタの上に移すと、器用な手先で皿の上にひっくり返した。
わずかに崩れたデコレーションをスプーンの先で修正し、得意げな顔を見せた。
すでに食べ終えた私は笑顔を浮かべて「紅茶、冷めるよ」と促す。
彼女は猫舌なので、時間が掛かったことは計算のうちだったのかもしれない。
ひぃなはムースをひとかけらスプーンで掬って口に運んでから紅茶に口をつけた。
私はひぃなが食べる様子をじっと眺めていた。
癒やしとしては、インターネットの子猫動画に勝るものがある。
今日の彼女はふわっとした大きめのセーターにキュロットスカート。
少女っぽさが強調され、ずっと眺めていたいと思ってしまうほどだ。
「お疲れ?」とひぃなが私に目を向けた。
その口角の上がり方が絶妙で、私の頬も緩む。
それを悟られまいと難しい顔を作って「少しね」と答えた。
「ひぃなの顔を見ているとすぐに元気になるよ」と私が真っ直ぐ見つめると、彼女は目尻をわずかに下げた。
彼女が紅茶を飲み干したのを見計らって、「ひぃなは平気?」と尋ねる。
一瞬視線を落としてから私の目を見つめたひぃなは「もう少し自分で考えたいの」と口にした。
私は「分かった。無理はしないでね」と言ってスッと立ち上がる。
ひぃなも「うん」と頷いて私のあとに続いて立った。
私はポットなどをトレイに載せてキッチンに運び、ひぃなは食べ終えたカップを捨てたりテーブルを拭いたりしていた。
洗い物を終えて自室に帰ろうとすると、ひぃなはノートパソコンに目を向けたまま「わたしは人に希望を与えるような服を作りたいの」と思いの丈を私に伝えた。
私は彼女の元へ行くとその背後にしゃがみ込む。
両方の肩に手を載せると、「その想いをどう形にしていくかだよね?」と問い掛ける。
私にファッションのことは分からないし、クリエイティブな話もできない。
私ができるのは道筋を示すことくらいだろう。
ひぃなは退院後の母親に着てもらう服のイメージを語ってくれた。
退院してもしばらくはリハビリをしながら家での生活が続く。
それでも着飾る楽しさを感じることができる服。
他人に見せるよりも自分の気持ちを前に向かせる服。
それでいて着替えの手間が掛からず、過ごしやすい快適な服。
「ずっと家にいるからこそ気持ちを切り換えるために着替えることは重要だと思うの」
「じゃあ私の分も作ってもらわないといけないな」
「お母さんの服ができたら次は可恋のね。任せて!」
振り向いて高らかに宣言したひぃなの瞳は決意に満ちて輝いていた。
この輝きを消さないことが私の役目だ。
ひぃなだけでなく多くのアスリートに対しても。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。少なくとも大学生レベルの学力があると言われているNPO法人”F-SAS”代表。無名だが空手・形の選手でもある。
篠原アイリス・・・大学1年生。女子バレーボールの選手で代表レベル。Vリーグのチームに所属しつつ大学に通っている。今日は試合後すぐに可恋に電話した。
日々木陽稲・・・中学3年生。将来の夢はファッションデザイナー。12月末に母親が倒れ現在も入院している。可恋と同居中。
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