第641話 令和3年2月5日(金)「面会」日々木華菜
ガラス越しに見るお母さんの変わり果てた姿にわたしは衝撃を受けた。
働き盛りのお母さんが倒れたのは昨年の年末のことだ。
そのまま緊急入院して1ヶ月以上が経ち、ようやく面会を果たすことができた。
病名は心不全。
命に関わる病気だ。
幸い入院後の経過は良好で、手術はしないで済むという。
しかし、新型コロナウイルスではハイリスクな持病となるため家族の面会はなかなか叶わなかった。
ビデオレターやSNSを通じたやり取りはしているものの、会いたいという思いは募った。
わたしはもう高校生だから寂しいということはないが、お父さんとふたりだけの食卓を見て切なく感じることはある。
それに、何をするにしても心のどこかに将来の不安やお母さんを心配する気持ちがあった。
「お母さん、元気そうで良かったよ」
わたしの隣りに立つ妹のヒナが明るい声で話し掛けた。
今日はわたしもヒナも学校を早退して病院にやって来た。
ここは神奈川県内だがかなり山奥にある大きな病院だ。
お父さんの運転で初めて訪れたが、わたしたちが暮らす世界とは別の場所に来た感じがして不思議な気分だった。
「早く退院したくてうずうずしているわ」とお母さんは微笑んだ。
その顔には見たことがないほど多くの皺があった。
わたしが受けた衝撃、それはお母さんがたった1ヶ月でとても老け込んだことによるものだった。
お母さんは横浜のデパートで働いている。
いまはほとんど現場に立つことはないが、自他共に認める接客のプロだ。
当然、外見には非常に気を使い、家で寛いでいる時も化粧を落としていることは稀だった。
そのお母さんの髪には白いものが混じり、肌にも張りが感じられない。
年齢よりも若く見えることが自慢だったのに、いまは年齢より老けているように見えてしまう。
やつれた印象も相まって一気に歳を取った気がした。
面会は感染対策により室内にお母さん、廊下の一角にわたしたち家族と分けられている。
車椅子に座っているお母さんはとても小さく見えた。
こちら側にはソファが用意されていたが、わたしもヒナも仕切りのガラスに接近して立っていた。
わたしは内心の動揺を顔に出さないように気をつけた。
ヒナもまたお母さんの変化がまったくなかったかのように接している。
「やはりストレスが良くなかったのかもしれないわね」と自分の胸を押さえたお母さんは「辞めると決めてからはスッキリしたもの。多くの人に迷惑を掛けたけれど、病気が決断を後押ししてくれたのよ」とサッパリした顔で話した。
新型コロナウイルスの影響でデパート業界も苦境を迎えている。
お母さんは転職や起業などをずっと考えていたそうだ。
「若いうちは先が見えないから、えいやって決断ができたのよ。でも、歳を取ると変に先が見えちゃうからなかなか決められなくって……」
「もっと相談してくれたら良かったのに」と言うお父さんに「頼られるのは好きだけど、頼るのは苦手なのよ」とお母さんは苦笑した。
そして、「陽稲の誕生日までには退院したいわ」とお母さんは前向きに語る。
ヒナの誕生日は3月末だ。
この状況なので春の祖父宅への帰省は無理だろう。
彼女の高校進学のお祝いやお母さんの退院祝いを兼ねたささやかな宴ができれば願ったりだ。
「無理しないでね。絶対に無理しちゃ駄目だよ」とヒナが念を押すと、お母さんは「大丈夫、大丈夫」と以前のように笑って受け流した。
「華菜は何か言っておきたいことはないのかい?」とお父さんに促され、わたしはお母さんと全然話していなかったことに気づく。
短い面会時間は間もなく終了だ。
いろいろと伝えたいことがあったような気はするが、いまはそのどれもがとりとめのないことのように感じる。
言おうとして言葉が出ないわたしに家族の視線が集まる。
不意に涙が零れた。
ヒナがわたしの手をギュッと握った。
わたしは「お母さんの顔を見れて良かった……」と言うのが精一杯だった。
お母さんも別れ際は涙ぐんでいた。
一方、ヒナは最後まで笑顔を貫き通した。
それが彼女なりの決意なのだろう。
その強さが眩しかった。
お父さんが手続き等を済ませる間、わたしとヒナは車中で待つことになった。
外は肌寒いが陽差しがあるので車内は暖房なしでも気にならない。
「メイク道具、持って来れば良かったね」とヒナがポツリと呟いた。
「顔色とか見なきゃだから、病院じゃダメなんじゃない?」と指摘するとヒナは眉間に皺を寄せて「そっか」と項垂れた。
「ヒナが言う見た目の重要性を今日ほど感じたことはないよ……」
ファッションデザイナーを目指す彼女は日頃その人のすべてが外見に表れると主張している。
服装だけでなく身だしなみなどの要素もそこに含まれる。
今日のお母さんの姿からは入院の大変さが伝わってきた。
服装は入院後に買ったスウェットの上下なのでくたびれた感じではないのに、着方ひとつで印象が変わるものだ。
1ヶ月振りの家族との対面だからお母さんだって身なりを整えようとしたはずだ。
それができないほどまだ辛いのかと思うと胸がおしつぶされそうだった。
ショックを引きずるわたしとは対照的に、ヒナは「むくみなのかな。靴下がパンパンな感じだったよね。少し大きめの靴下をプレゼントしようか? それともレッグウォーマーみたいな方が良いのかな?」と小声で思案している。
その表情は険しく、ショックを受けていることは間違いなかった。
「お金半分出すから、わたしにも相談して」と声を掛けると彼女はこちらを見上げた。
「うん」と申し訳なさそうに答える妹の頭の上にわたしは自分の手を置いて軽く撫でる。
「わたしの前では泣いてもいいから」とからかうように言うと「平気だよ」とヒナは強がった。
「わたしだけみっともなく泣いたってことにしたい訳?」
「ありがとう、お姉ちゃん。でも、本当に平気」
ヒナが可恋ちゃんの家で暮らし始めて1年近くになる。
親元を離れたせいか可恋ちゃんの影響か、ヒナは随分と強くなった。
それは嬉しくもあり寂しくもある。
「ところで、今日のヒナの服装にはどんな思いが込められているの?」
わたしは高校の制服のまま来たが、彼女は中学の制服から着替えている。
スカートを穿くことが多いヒナが今日はパンツ姿だ。
ピンクのフリルがついたブラウスに淡い緑のパンツが一足早い春を感じさせた。
「春から高校生だからね。大人らしさを見せて安心させたかったし、春らしさを演出しようと思ったの。あと、このブラウスは前にお母さんが可愛いって言ってくれたから……」
そう、ヒナは春から高校生だ。
いまだにランドセルが似合いそうな容姿だが、中身はすっかり成長している。
「お母さんも春を感じたんじゃないかな」と言うと、ヒナは嬉しそうに微笑んだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木華菜・・・高校2年生。料理が趣味でかなりの腕の持ち主。ほかの家事も一通りこなすので母親不在で困ることはないが、不安や心配は募っている。
日々木陽稲・・・中学3年生。昨年の一斉休校以来可恋のマンションで暮らしている。入院してからの方が母親との連絡を取り合う時間は増えた。
日々木実花子・・・華菜と陽稲の母。1度目の緊急事態宣言でデパートが休業中は起業に向けた準備も進めていたが、解除後は多忙で今後どうするか決めかねていた。家事はできるが夫任せなところも。
日野可恋・・・中学3年生。入院経験は豊富だがそのほとんどが小学生以下でのことなので見た目は気にしていなかった。
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