第487話 令和2年9月4日(金)「言葉に想いを」秋田ほのか

 閑散とした廊下を私は早足に歩く。

 いつもよりかなり早い時間。

 まだ生徒の姿は見当たらない。


 夏に舞い戻ったかのような青空だ。

 口元のマスクが暑さと息苦しさを感じさせた。

 向かったのは自分のクラスではなく3年生の教室が並ぶ階。

 その廊下に数名の女子の集団がいた。


「早也佳は病院で検査を受けてから登校するって」


 そう説明するのは副部長の彩花先輩だ。

 穏やかで後輩思いの先輩が丁寧に状況を説明してくれる。

 その周囲をダンス部の部員が取り囲んでいる。

 昨夜LINEで早也佳先輩がケガをしたと知った。

 ショックだった。

 運動会まではあと1週間ほどだ。

 3年生の先輩たちは最後の舞台となる運動会で披露するダンスの練習に全力で取り組んでいた。

 それを知るだけに、私はいてもたってもいられずにこうして朝早く登校したのだ。


「休み時間ごとにみんなが来ると落ち着かないと思うから、昼休みと放課後に時間を取ってもらうことにしたの。だから、みんなも守ってね」


 副部長はそう言って心配する部員たちを見回した。

 頷く面々の中にあかりや琥珀の姿もあった。


「まだ時間があるから平気だけど、ここに集まっていると邪魔になるので自分の教室に戻ってね」と優しく注意する副部長に、「お手伝いします」とあかりが声を掛けた。


 しかし、副部長は首を横に振り「ひとりで大丈夫だよ。綾乃もサポートしてくれているし、単語帳を持って来たから時間は潰せるから」と微笑んだ。

 その貫禄のある態度にあかりは引き下がった。

 代わりにあかりはその場にいた1、2年生部員に声を掛け、この情報をほかの部員と共有するように指示を出した。

 そして、率先してこの場を離れようとした。


 私も自分の教室に向かおうとしたが、その腕をあかりにガッチリとつかまれる。

 逆サイドに琥珀が来て、ふたりに挟み込まれる形になった。

 あかりは笑顔で「ちょっと話があるの」と言って私と腕を組んで歩き出す。


 私は火曜水曜と学校を休んだ。

 月曜にびしょ濡れで家に帰り、風邪を引いたと嘘をついた。

 肉体はあの程度のことではビクともしないが、心はひどい風邪をこじらせたような状況だった。

 それが回復したとは言い難いが、ずっと休んでもいられない。

 昨日重い足を引きずって学校に来た。

 ほとんど誰とも口をきかず、放課後の練習も琥珀に任せて帰ってしまったけれど。


 あかりたちに連れて行かれたのは部室の前だった。

 鍵が掛かっているので中には入れないが、朝のこの時間に訪れる者はまずいない。

 月曜日に部室であったことを思い出し、私は心持ち顔が赤くなった。

 もうひとりの当事者であるあかりは気にする素振りを見せない。


「ほのかって意外と繊細なんだね」


 あかりはからかうように口を開く。

 私は仏頂面になる。


「繊細やから壁を作って身を守るんよ」と琥珀が知った風な口をきく。


 すかさず、あかりが「よく分かるね」と感心した。

 琥珀は「そりゃ他人事やないしね」と肩をすくめた。


「琥珀も繊細なの?」とあかりは驚いたように尋ねる。


「失礼やね。うちは乙女やさかい……って言うのは冗談やけど、こうして自分のキャラを作らんと怖いねん」


 琥珀の言葉に私も目を見張った。

 彼女は笑顔を浮かべているが、その瞳には本気の気持ちが籠もっているようだった。

 本心を見せない彼女が自分の思いを吐露するなんて珍しいことだ。


 いつもならここで私が「心臓に毛が生えているくせによく言うわね」なんて毒舌を吐くところだが、私は口をつぐんだままだ。

 そのせいか気まずい沈黙が訪れる。

 あかりだけはそれに気づかない様子で自分の後頭部に手を当てていた。


「先輩たちって凄いよね。さっきの副部長も大人って感じだったし」


 あかりが言葉を選びながら話し始めた。

 その顔に気負いは感じられない。


「あたしじゃ、ぜぇぇぇぇぇったいに真似できないと思うんだ」


 あかりはもの凄く力を込めて「絶対に」を強調した。

 その気持ちは私にも分かる。

 たった1つの歳の差なのに大人と子どもほど違いがあるように感じることはよくあった。


「だから、足りないところを助け合っていくしかないと思っているの。お願い、力を貸して! ほのかがいないと、あたしひとりじゃ絶対に無理だから!」


 あかりは叫ぶようにそう言うと、私に向かって頭を下げた。

 私はグッと奥歯を噛み締める。

 嬉しさがこみ上げてくるが、同時に久藤の指摘も頭を過ぎった。


「……私のせいでダンス部がおかしくなったら」


 私は二言目には批判の言葉が出てしまう。

 それではダメだと自覚はしている。

 しかし、治そうとしても治らない病気のようにも感じていた。

 久藤は私のそんな毒が組織を腐らせると言った。

 ギスギスした悪感情は伝染する。

 私が撒き散らした毒がダンス部をボロボロにしたら……。


「大丈夫だよ!」とあかりはキッパリと断言した。


「ほのかは自分の欠点とちゃんと向き合っているじゃない。それを完全に克服することは無理かもしれないけど、欠点だという自覚があれば何か起きても対応できるはずだよ」


 あかりは私の手を取って力説した。

 その手はとても温かい。


「ほのかが必要なの!」


 あかりは私の目を真っ直ぐに見た。

 眩しすぎる。

 しかし、目を逸らしたいのに逸らせない。


「……あかり」と私は呟く。


「まるでプロポーズやね」と唐突に琥珀が茶々を入れる。


 あかりは赤面して私の手を離した。

 私は名残惜しい気持ちを隠して、琥珀を睨んだ。


「うちはふたりに謝らなあかんの。うちな、ずっとふたりより上やという気持ちがあってん。忙しいから仕方ないけど、それがなかったらうちの方が部長に相応しいって」


 琥珀の告白に私たちは言葉がすぐには出てこなかった。

 そんなふたりを他所に彼女は切々と言葉を紡ぐ。


「今回のことで思い知らされたんよ。思い上がっていたんやって。ちょっと器用に立ち回れるだけで、うちは全然ダメやって。ほんま、ごめん」


 琥珀は深々と頭を下げた。

 私には彼女が震えているように見えた。

 この告白は彼女にとって相当怖いものだろうから。


「あたしは、琥珀は凄いと思っているよ。あたしにないものをたくさん持っているもの。上か下かって気持ちは人間だから誰でもあるんじゃないかな。あたしだって、コミュ力はほのかより上だって思っているし」


 あかりがニヤッと笑う。

 私はフンと鼻を鳴らした。


「うちはもう忙しいって言い訳はせえへん。あかりやほのかに負けへんよう頑張るから許してな」


 琥珀は胸に手を当て決意を語った。

 私もあかりも感極まったように琥珀を見つめた。

 琥珀は急にニヤニヤ笑いを浮かべると、「じゃああとは若いふたりに任せるから仲良うやりや。でも、授業が始まるまでに戻ってこなあかんよ」とまるでお見合いの仲人のようなことを言い出した。

 戸惑う私たちを残して「忙しいから先に戻るわ」と手を振って去って行く。

 残されたふたりは顔を見合わせた。


 ホームルームまではまだ時間があった。

 こうしてふたりきりになると――しかも、部室の前で――月曜日の記憶が鮮明に蘇る。

 あの時、私が口を開きかけ、それをあかりが塞いだ。

 自分の唇を使って。

 私はパニックになり、その後のことはあまりよく覚えていない。


「暑いね」とあかりが言った。


 彼女は自分の鞄から水筒を取り出した。

 部活をやっているのでかなり大きめの直飲み用の水筒だった。

 彼女は自分のマスクを外した。

 隠されていた唇が露わになり、私の心臓がドクンと高鳴った。

 最近ダンス部の練習がないせいか、あかりの唇を見る機会は少ない。

 この前の部室ではふたりともマスクをしていなかったけど……。


 あかりの唇から私は目が離せない。

 彼女が飲む様子はどこか艶めかしく、私の心臓の鼓動は早鐘を打つようだった。

 水筒から口を離したあかりはこちらを見て「飲む?」と手を差し出した。


 意識するなと言っても意識してしまう。

 それって間接××じゃない……。

 いや、この前はもっと凄いことをしてしまった。

 でも、この明るいところでこんなことを……。


 私が固まってしまったことで、あかりはいらないと思ったのか水筒をしまおうとした。

 慌てて私は彼女の水筒を奪い取った。

 これはただの水分補給。

 そう自分に言い聞かせながら水筒に口をつける。


「あ、ありがと……」


 水筒を返すと、受け取ったあかりが「顔、赤いよ」と心配してくる。

 誰のせいよと思ったが、私は黙ったまま顔を見られないようにそっぽを向いた。

 あかりは私のおでこに手を当ててくる。

 一瞬避けようとしたが、すぐに思い直してその手を受け入れる。

 ふたりの距離が近い。

 顔が火照って、本当に熱が出てしまいそうだった。




††††† 登場人物紹介 †††††


秋田ほのか・・・2年1組。ダンス部。2年生部員の中では実力ナンバーワンと目されている。運動会で行われるクラスの創作ダンスの練習中にクラスメイトを怒らせてボイコット騒ぎになった。それが収まった直後にクラスメイトの久藤亜砂美に色々言われて自信を失いダンス部を続けていくかどうか迷っていた。


辻あかり・・・2年5組。ダンス部次期部長。ほのかの親友で、思い詰めていた彼女と部室で出逢い衝撃の行動に出た。口に出されてしまったら負けと思っての咄嗟の判断だった。


島田琥珀・・・2年1組。ダンス部次期副部長。両親の影響で関西弁を話す。コミュ力が高く人当たりは良いが意外と毒舌。クラスメイトの久藤亜砂美と対立していて、ほのかの件ではしてやられた。


須賀彩花・・・3年3組。ダンス部副部長。部長たちとは別の意味で後輩たちからとても慕われている。


山本早也佳・・・3年1組。ダンス部。部長の優奈の友人で、彼女に誘われて入部した。ダンスの実力もあり後輩からの人気は高い。しかし、昨日の練習中に転倒して左足首を捻挫した。全治2週間で来週土曜日に予定されている運動会への参加が危ぶまれている。


 * * *


 昼休み、3年1組の教室に行くと何人ものダンス部部員が押しかけていた。

 早也佳先輩は椅子に座り、普段と変わりない爽やかな笑みを浮かべていた。

 後輩たちの方が遥かに悲壮感を漂わせている。


 ひとりひとり順番に声を掛け、そのひとつひとつに先輩は丁寧に応えている。

 私だったら絶対にできないだろう。

 今朝のあかりの言葉に納得する思いが増した。


 昨夜2年生部員のLINEグループで千羽鶴を作ろうと盛り上がっているの見かけた。

 私は不快だった。

 そんなのは自己満足じゃないかと。

 しかし、いま真剣に早也佳先輩を心配する部員たちの姿を見ると、そう目くじらを立てることじゃないと思い直した。


 私の番が来た。

 いざとなるとなかなか言葉が出て来ない。

 ギリギリ間に合うかもと聞いたが、どうなるかは分からない。

 それに練習だって満足にできないだろう。

 運動会がダンス部引退前の最後の晴れ舞台なのに……。


「早く治るように祈っています」としか私は言えなかった。


 迷惑にならないようにすぐに戻ろうと思っていた私を早也佳先輩は呼び止めた。

 さらに、ちょっと話があるといって周りの部員たちに離れてもらう。

 私のトラブルが先輩の耳まで届いて心配を掛けたとしたら罪悪感に苛まれるところだ。


「あたしね、ほのかちゃんのダンス、好きだよ」


 早也佳先輩はかしこまった私を気に留めるでもなく軽やかに話す。

 私はマスクの下でギュッと唇を引き締めた。


「あたしはひかりや優奈のような才能はない。自分でよく分かっている。それなのにダンス部ではこのふたりに次ぐナンバースリーだって思われていた。正直ふたりとの距離はムチャクチャあったんだけどね。でも、ふたりに引き離されないように必死に努力した」


 早也佳先輩は部長やひかり先輩と並ぶほど後輩から人気がある。

 ダンスは上手で、気さくで、格好いい。

 カリスマ性のある部長や、ひたすらダンスの技術を高めているひかり先輩とは違った魅力があった。

 その早也佳先輩がこんな風に思っていたなんて……。


「あのふたりには全然追いつけなかったけど、それでも最近ようやくほかの子のダンスが分かるようになってきた。そして、興味を惹かれたのがあなたのダンス」


 他人のダンスをあれこれ言えるほど上手くはないんだけどねと、はにかみながら先輩は語る。

 その目はとても優しげだった。


「この子は誰よりも努力をしているんだなって分かったの。人よりも何倍も努力して積み上げてきたダンスなんだって」


 私はゴクリと唾を飲んだ。

 こんな風に言われたのは初めてだ。


「ひかりを見ているとどれだけ努力をしても才能には敵わないと思うことはある。でもね、努力をしたことはあたしの力になっていると感じるの。だから、間に合わせてみせるよ」


 それは自分に言い聞かせる言葉だったかもしれない。

 最後の言葉は力強かった。

 私は込み上げるものを止められない。

 涙が溢れる。


「頑張ってください。応援しています」


 そんな陳腐な言葉しか出て来なかったが、私は精一杯の思いを込めた。

 いつの間にか横に来ていたあかりがそっと私にティッシュを差し出す。

 私は衝動的に彼女に抱きつき、その胸に顔を埋めた。

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