第535話 令和2年10月22日(木)「文化祭前夜」原田朱雀

 この1週間通い詰めだった多目的室に鍵を掛ける。

 最近は日が暮れるのが早い。

 今日は曇り空ということもあって外はもう暗くなっている。


「いよいよだね」と言ったちーちゃんの声がうわずっていた。


 滅多に感情を表に出さない彼女でさえ、明日が本番ということで緊張感を漂わせている。

 わたしはちーちゃんに微笑みかけた。


「絶対に成功するって」


 わたしは自分の右手で握り拳を作るとそれを自分の胸に当てた。

 いろいろな思いが押し寄せてくる。

 でも、それに浸るにはまだ早い。


 わたしとちーちゃんは鍵を返すために職員室に向かって歩き始める。

 まだ校内に残っている生徒はいるようで、あちこちから焦る気持ちが混じった声が飛び交っていた。


「よくここまで来れたよな」


 振り返るには早いと思っていても、自然とそんな感情がわき上がってくる。

 やはり感傷的になっているのだろう。


「ラスボス前の最後のセーブポイントって感じ」とちーちゃんがロールプレイングゲームに喩える。


 本当にこの時間に戻ることができるのなら何度でも戻りたいと思ってしまうかもしれない。

 それほどいまは充実した気分だ。


「明日何が起きても、それを含めて楽しまないとね」


 やるべきことはすべてやった……と胸を張って言えるかどうかは心もとない。

 時間切れで諦めたことはある。

 自分の力不足を感じることも多かった。

 それでも精一杯やった。

 ファッションショーをやりたいと思った1年前の文化祭まで時間が巻き戻ったとしても、わたしは同じことをやったはずだ。


「女神様と魔王様の加護を受けた勇者は強い」


 ようやくちーちゃんはいつもの口調に戻ったようだ。

 預言者というか、ゲームのナレーションのようなすべてを見透かした口調に。


 わたしは廊下に誰もいないのを確認してから左の肘を少し突き出した。

 何も言わなくても左側を歩いていたちーちゃんは自分の右手をそこに添えた。

 これも練習だと自分に言い聞かせて、堂々と歩く。

 舞台に立つつもりはこれっぽっちもなかったのに、日々木先輩に頼まれては嫌とは言えない。

 それにちーちゃんのエスコート役をほかの人に譲る訳にはいかない。


 明日のちーちゃんの衣装は本人の希望で魔法使いっぽいものになった。

 そんな希望に対して「これなんてどう?」とすぐに自分が所有している服の写真を出してくる日々木先輩は凄い。

 だが、それ以上に凄いのは急遽エスコート役の衣装が必要になったのに、それをあっという間に準備した日野先輩だろう。


「ひぃなが言い出したことだから」と簡単に衣装を集めた先輩を見ていると、わたしのこれまでの苦労は何だったのかと思ってしまう。


 職員室に近づくと人の気配があった。

 わたしがエスコートを止めようとしたのに、ちーちゃんはもっと大胆に腕を組んできた。

 恋人同士のように腕と腕とを絡ませる。


「見られるよ」と言っても、「別にいい」と彼女はどこ吹く風だ。


「ま、いっか」とわたしは呟くと歩みを進めた。


 職員室の中でもちーちゃんは腕をほどかず、先生からは「仲、良いな」と笑われた。

 わたしは「ラブラブですから」と冗談めかして答えた。


 職員室を出るとすぐにちーちゃんが腕を離した。

 名残惜しかったが、仕方がない。

 わたしは右手で持っていた鞄を左手に持ち替えようとした。

 しかし、それより早くちーちゃんが手を繋いできた。

 昔はよく手を繋いでいた。

 小学生の低学年の頃だ。

 それが、いつの頃からか手を繋ぐことはなくなっていた。


「どうしたの?」と驚いて聞いてみると、「エスコートと腕を組むのと手を繋ぐのとの比較実験」と分かったような分からないような回答が返ってくる。


 ちーちゃんから上目遣いで「ダメ?」とお願いされて断れる訳がなかった。

 そのつぶらな瞳に長い睫毛は反則級に可愛らしい。

 もちろん生まれつきの部分も大きい。

 だが、この愛らしさを磨き上げるためにそれはもう大変な苦労を……という話は聞いたことはないものの、わたしの数倍は美容に気を配っているのは知っている。

 わたしが男子並みにがさつなので女子の平均と比較してどうかは分からないが。


 彼女の繊細な手は温かく、強く握ったら壊れそうなほど柔らかかった。

 わたしほどではないが、手芸の作業をしているはずなのに労働を知らない手という感じだ。

 なんだかずるいとさえ思ってしまう。


「わたしの手、ゴツゴツしているでしょ?」と言うと、「力強い手」と返事があった。


 彼女の設定ではわたしは勇者だからそれでいいけど、女の子に言うセリフではないよね?

 日々木先輩と日野先輩もこんな感じなのかなとふと頭をよぎる。

 わたしたちはあれほどの身長差はないので、仲が良い友だち同士に見えるんじゃないか。

 別に男子の方が背が高くないといけないなんて思っていなくても、もう少し身長差があった方がいいなという固定観念はわたしにもあった。


 明日のことよりもちーちゃんのことが気になっているうちに昇降口まで来た。

 比較実験中のちーちゃんも押し黙ったままだ。

 相手の存在は強く感じるのに、うまく言葉が出て来なかった。

 でも、気まずくはない。

 これまでずっと一緒にいたから、何も言わなくても分かり合っているはずだ。


 お互いに視線を交わしてから手を離す。

 言葉を発しないまま靴を履き替える。

 わたしは自分の気持ちを整えるためにスニーカーの靴紐を結び直した。


 わたしが立ち上がるとちーちゃんが近寄ってきた。

 夕日は出ていないのにその顔は赤らんでいるように見える。


「実験の続き」と言って手を伸ばしてくる。


 わたしも左手を差し出す。

 すると、ちーちゃんはただ繋ぐのではなく指と指の間に自分の指を絡めてきた。


「今度は恋人繋ぎの実験」とちーちゃんは俯いてこちらを見ずに囁いた。


 手を繋いでいた時もドキドキしていたけど、いまは顔から火が出るくらいカーッと熱くなる。

 右手には鞄があり、左手はちーちゃんと繋がっているため顔を隠すこともできない。

 わたしも俯きがちに顔を伏せた。


 視覚からの情報が減ると、より彼女の手の感触に意識が向いた。

 お互い顔を背けているのにまるで心と心が融合したかのようだ。

 彼女の心臓の高鳴りが自分のもののように感じる。

 同時にわたしの彼女への思いがすべてさらけ出されてしまった気がした。


「最後の実験はお姫様抱っこになっちゃうんじゃない?」


 このままじゃヤバいと、わたしは笑いで誤魔化そうとした。

 いくらちーちゃん相手といえども、いやちーちゃん相手だからこそ、隠しておきたい感情や欲望はある。

 ちーちゃんはすっと顔を上げた。

 わたしを見上げたその目は期待に満ち溢れていた。


「……ごめん。ちーちゃんがいくら軽くてもわたしにそんな力はないから」


 そんなにがっかりしなくてもと叫びたくなるくらいちーちゃんは落胆の表情を見せた。

 もしかしてわたし鍛えなきゃいけないの?

 日野先輩に弟子入りして筋トレ始めなきゃダメ?


 混乱して足を止めたわたしの手を引いてちーちゃんが言った。


「帰るよ。この実験を続けるために」




††††† 登場人物紹介 †††††


原田朱雀・・・中学2年生。手芸部部長。今年の文化祭でファッションショーを開催するために精力的に動き、可恋からプロデューサー役を任ぜられた。


鳥居千種・・・中学2年生。手芸部副部長。朱雀の幼なじみ。美少女だが残念系として周囲からは見られている。成績は良いのに口を開くとライトノベルやウェブ小説のネタ(得に異世界ファンタジー)ばかりである。


日々木陽稲・・・中学3年生。昨年のファッションショーの中心的人物で今年も大いに関わっている。チーム日々木を結成し、ショーではエスコート役と一緒に登場させることを思いついた。


日野可恋・・・中学3年生。昨年のファッションショーをプロデュースした。今年は直接的には関わってこなかったが、陽稲の思いつきの尻ぬぐいをやってのけた。

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