第8話 令和元年5月14日(火)「悪魔の微笑み」日々木陽稲

 今日は雨で朝から気温が上がらず肌寒さを感じた。雨は帰る頃には止んでいた。今日も3人で学校の正門前にある可恋のマンションに向かう。


「今日は私の部屋でやるね。肌寒かったらなにか上に掛けるものを貸すよ」


「ありがとう。でも、可恋がいちばん体調に気を付けないとだよ」


「分かってる」と可恋が笑う。


 昨日は広々としたリビングで勉強をした。今日は外がどんよりと暗いこともあって、寒々しさを感じてしまう。可恋の部屋は同じフローリングではあるけど、ほっと落ち着く雰囲気がある。可恋は部屋着に着替え、上に薄手のジャケットを羽織った。わたしと純ちゃんが勉強の支度をする間にお湯を沸かし紅茶を淹れてくれた。


 金曜日に中間テストがある。学校はピリピリするというほどではないけど、試験期間中の勉強モードという空気が漂っている。昨日、高木さんが可恋に勉強を教えてもらったことを契機に、休み時間になると他のクラスメイトたちが可恋のところに質問をしにやってくるようになった。学級委員だからこれくらいはするよと可恋が言ったことで、男女問わずに押し寄せている。ノートの一件から可恋が勉強をできることはクラスの内外に広がっていた。


 勉強を始めて30分で一旦休憩。今日も可恋とは学校でゆっくりとお喋りができなかったので、独占できるこの時間が待ち遠しかった。


「昨日教えてくれたオンとオフの使い分け、やってみたよ」とわたしが報告すると、「どうだった?」と興味深そうに聞いてくれる。


「いちばんリラックス効果があったのは音楽かな。10分くらい聴いてから勉強を再開したらかなり集中できたもの」


「どんな曲を聴いたの?」


「ショパン!」


「へぇ」


「ピアノ習ってた時から好きだったの。自分では弾けないんだけどね……」と苦笑する。「手はちゃちゃいし、演奏会はあがっちゃってボロボロだし、あんまり長続きしなかったの。聴くのは今でも好きなんだけど」


 ピアノはお姉ちゃんの方が上手い。もう辞めちゃったけど。


「可恋はピアノ弾ける?」と聞いてみる。雰囲気的にはピアノが似合いそう。


「私は空手以外は習い事全然やってないの。学校の授業も休みがちだったから、できる楽器って特にないね」


「そっか」


 可恋は小学校低学年の頃まで本当に大変だったみたいだ。この前、可恋のお母さんに色々と教えてもらった。その後もなかなか「普通の子」と同じようにはいかなかったようだし。


「歌はどうなの?」


「学校って合唱させられることが多いじゃない。大阪にいた時、空手道場の大先輩にあたる人の娘さんが音楽の専門家で何度か歌唱の指導をしてもらったの」


「へえー」


「みんな小さい頃から歌うのに、私はそういう経験がなくて、苦労したのよ。でも、ちゃんとトレーニングすれば一定水準までは誰でも歌えるようになるって教えてもらって、人並み程度には歌えるようになったって感じかな」と可恋がさらりと言ってのける。病気を言い訳にしたくないという可恋の思いが垣間見えた気がした。


「可恋の言う『人並み』がどんな感じか聞いてみたいな」とわたしは笑った。




 続く30分間数学に頭の中を占領され、青息吐息のわたしに「糖分補給」と言って可恋がクッキーをくれる。


「可恋はお菓子も作るの?」


 わたしの質問に可恋は首を振った。「お菓子は食べてくれる人がいないと作る気にならない感じかな。自分用だけだと買っちゃった方が楽だし」


「そっか。うちのお姉ちゃんはよくお菓子作ってくれて、わたしや純ちゃんに振る舞ってくれるの。お菓子作りならお姉ちゃんが家族の中でいちばん上手」


「ひぃなが食べたかったら、私もお菓子作るよ」


「うーん、でも、いつも作ってもらうばっかりじゃない。お菓子は、わたしが可恋のために作ってあげたいな」


「お菓子作りって腕力や体力を使うから、ひぃなにできる?」と可恋がニヤニヤと笑う。いいもん。「純ちゃん、頑張ろうね」と無理矢理純ちゃんを巻き込む。クッキーを黙々と食べていた純ちゃんは話を聞いていなかったはずなのに、何の迷いもなく「うん」と頷いた。


「可恋、晩ご飯どうする?」とわたしは尋ねる。昨日は勉強会の後、うちで可恋と純ちゃんを招いて夕食を食べた。勉強を教えてくれたお礼という名目だったけど、ひとりで食べさせたくないというわたしの思いもあった。


「今日は天気が悪いからやめておくね」


 雨は止んでいるみたいだけど、暗いし肌寒い。帰りのことまで考えると無理に誘うのはよくないだろう。


「分かった。お姉ちゃんに連絡しておくね」と言って、スマホを取り出しLINEで伝えた。すぐに「了解」と返ってきた。「いつもお菓子作ってくれてありがとう」とメッセージしておく。




 暗くなってきたということで、少し早めに勉強会を切り上げる。帰り際に、「体調大丈夫?」とわたしは何度も念を押した。


「少し肌寒いけど、このくらいなら平気。ちゃんと明日も学校に行くよ」


 確かに今の可恋は元気そうに見える。


「もし体調が悪かったら、ひぃなには隠さずにちゃんと言うから」


 そう言われると、わたしは頷くしかない。「分かった。信じるよ」


「私を信じて」と可恋が芝居がかって言った。昨日も帰り際に可恋の口からこの言葉を聞いた。わたしと可恋は顔を見合わせて笑った。


「そうだ!」と可恋が何かを思い付く。


「私もひぃなを信じたいの。だから……」


 可恋が微笑む。それは悪魔のような微笑みだった。


「今度の中間テストの数学で、80点以上取ると約束して」


「ちょ、そ、それは無理……」とわたしの言葉に重ねるように「無理なの? 私がこんなに頑張って教えたのに」と可恋が驚いたように言う。驚いていないのは見え見えなのに。


「でも、さすがに80点は……」とわたしが弁明しようとすると、可恋はすっと目を細めた。本人が意図しているかどうかは分からないけど、心の底まで見抜くような目だ。


「ほんとにプレッシャーに弱いのよ」というわたしの泣き言を「プレッシャーを克服する練習なのだから、少しはプレッシャーがかかってないと」と一刀両断した。


 薄々気付いてはいたけど、可恋って自分にも厳しいけど、他人にもそれなりのものを要求するタイプだね。数学もプレッシャーを克服することも私が望んでいることだからやるしかないけど。


「……頑張るね」と絞り出すようにわたしが言うと「そこは『私を信じて』でしょ」と可恋が追い打ちをかけてくる。


「可恋って悪魔みたい」


「なんだ。今頃気付いたの?」


 速攻で切り返されて、わたしは絶句した。


「わたしを信じて。これでいいでしょ」


 可恋は笑って頷いた後、顔を近付け、耳元で「ひぃなを信じてる」と囁いた。


 わたしは赤く染まった顔を見られないようにそむけ、悪魔どころか魔王じゃない! って心の中で叫んだ。

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