第9話 令和元年5月15日(水)「プレッシャー」日野可恋
今日のひぃなは笑顔が少ない。いつもの天真爛漫な雰囲気が影を潜め、考え込んでいる姿が目立った。私はひぃなの後ろの席なので、普段との違いがよく分かる。予想していた以上にプレッシャーに弱いことが窺えて心配になった。
昨日、私はひぃなに中間テストの数学で80点以上の点を取るように迫り、それを約束させた。普通にテストに挑めば、今のひぃなの実力なら80点は余裕だろう。プレッシャーに弱いというひぃながどれほどなのか確認しておきたい気持ちがあった。しかし、中学受験の失敗などがトラウマとなって、より意識してしまうようになったのだろう。
学校ではゆっくりと話す時間が取れなかったので、今日もうちで勉強会を開いて、そこでひぃなに聞いてみることにした。
「ひぃな、昨日は気持ちの切り替えできた?」
「うーん、あんまり。どうしても勉強のこと気になっちゃうし……」
「音楽聴いてもダメ?」
ひぃながうなだれて首を振る。私はひぃなのおでこに手を当てた。
「ちゃんと眠れた?」
ひぃなはわずかに目が泳いだが、すぐにこちらをしっかり向いて「少し寝付けなかった」とはっきり答えた。ちょっと疲れているようには見えるが、体調には問題なそうだ。
私はひぃなの目を真っ直ぐ見つめる。そして、「ひぃなって何が好き?」と問い掛ける。
「わたしの好きなもの?」
「うん」
「そりゃあファッションだよ」
「ファッションのどこが好きなの?」
「どこが……自分が綺麗になったり可愛くなったりすることも好きだけど、それを見て喜んでくれる人がいるってことがファッションに惹かれるようになった原点かな」
ひぃなが真剣に考えながら答えてくれた。私もそれを真剣に聞いて頷く。
「わたしは人と仲良くなるのが好きだけど、ファッションもコミュニケーションの重要な要素だと思うの。自分がどういう人間で、どんな気持ちで、どんな思いを込めてこの服を着ているのか、このメイクをしているのか、このオシャレをしているのかっていう自己表現で、それを表現するのも、相手の容姿からそれを読み取るのも大切なコミュニケーションの一環で、外見より中身が大事なんてよく言われるけど、その中身がどれほど優れていてもちゃんとコミュニケーションできないと意味が無いっていうかもったいないっていうか、インターネットなら言葉だけのやり取りで繋がれるかもしれないけど、リアルだとそういう言葉以外のやり取りが必要で、ちゃんと思いを伝えることが生きていく上でいちばん大切なことだと思うから……ごめん、何言ってるか分かんないよね」
ひぃなは身振り手振りを駆使して熱弁を振るっていたが、我に返って恥ずかしげに俯いた。「でもね、こういうファッションの価値をみんなに知ってもらいたいし、わたし自身そういうファッションの価値を高める仕事をしたいなって……」となおも話し続けた。
「顔を上げて。恥ずかしがることじゃないよ」
「うん」とひぃなが顔を上げ、にっこりと笑い掛けてきた。私も笑顔で応じる。
「可恋になら伝わるかなって思って話したんだけど、可恋みたいにちゃんと話せないね……」と落ち込むひぃなに、「ちゃんと伝わったよ。論理的に話すことも大事だけど、それだけが正解じゃないから」と私はフォローする。
「可恋に話せてよかった」とひぃなが照れて言う。
「元気出た?」
「あ、うん、ありがとう」
ようやくひぃなに笑顔が戻った。
「私はひぃなならできると思ってプレッシャーかけたけど、予想していた以上にひぃなが重荷に感じているのを見て、私の失敗っただと自覚してる。ひぃなのことを分かりたいと思ってやったことだけど、効率優先でひぃなのことをちゃんと考えてなかった。ごめんなさい」
「ううん」とひぃなが首を振る。「わたしの方こそ可恋の言葉を信じていなかったから、できないんじゃないかって不安が心を占めていたんだと思う」
「ひぃなにはあれだけ熱く語れる好きなものがあるよね。それはすごいパワーなの。誰でもがそういうのを持ってる訳じゃない。情熱を持ち続けることができれば、乗り越えられないものはないと私は思ってる」
ひぃなが私を見つめている。
「好きなことをやり遂げるためなら、失敗のひとつやふたつなんてどうってことないよね。あるルートで壁を乗り越えられなかったとしても、別のルートを行けばいい。探し続け、挑み続けられるならいつか道は開けるんじゃないかな。『超有名なファッションデザイナー』にはなれないかもしれないけど、『ファッションで世の中を変えていく』ことならいろんなやり方があるでしょう?」
ひぃなが頷くのを見て、言葉を続ける。
「取り返すことのできない失敗も確かにあるけど、たいていの事は取り返すことができる。受験なんて特にそう。ひぃなが中学受験に合格してたら、こうして会うこともなかったんだしさ」と笑ってみせる。
「たぶん、ひとりの人間の努力でできることなんてたかが知れていると思う。頑張れば成功するなんて保証はどこにもない。運や偶然は人が思う以上に人の運命を大きく左右する。だからこそ、目の前のひとつの成功失敗にあまりこだわっても意味がないって思ってる。ひぃな、言ってたよね。会話は上手くいかなくても修正できるって。普通の人は失敗を恐れて知らない人と話すのは怖いものだけど、ひぃなは失敗を恐れないから誰とでも平気で話せるし、仲良くなれる。他のことも一緒だよ。ピアノの発表会や学芸会で失敗してもそれだけのことじゃない。たとえ受験に失敗しても死ぬ訳じゃない。本番でミスってもそこまでやってきたものがあれば、前に進んでいけると思うな」
ひぃなの目尻から一筋の涙が零れた。私は手を伸ばし、ひぃなの頭をぽんぽんと叩く。
「わたしさ、どこかで自分を特別だと思ってたんだと思う。他の人よりもできて当然って。だから数学ができなかったり、プレッシャーに弱かったりすることは恥ずかしいことで、人に相談したり、克服したりしようとせずに、笑ってごまかしたり、目を背けて来たんだと思う」とひぃなが懺悔するように言葉を絞り出した。
「ひぃなは特別だよ。だけど、特別なことと完璧なことは違うから。完璧な人間なんてどこにもいないんだから、無理に目指さなくていいんだよ」と諭すと「可恋は完璧に見える」とひぃなが言い返した。
「そんなことないって。そうだね、恐らく完璧に見せるのが上手いってことかもしれない」
「そうなの?」とひぃなは納得せずに問い返す。
「私はひぃなより、欲だとか感情だとかずっと強いと思う。私はそれを必死にコントロールしてきたけど、御しきれなくて手に余ることも多いし……。ひぃなと出会って、ひとりで平気だと強がっていたことに気付かされたばかりだし」
私が頭をかくと、ひぃなが微笑んでくれた。
「少し気が楽になったと思う」
「ひぃなは真面目すぎるから」と私が茶化す。
「可恋って意外と優等生っぽくないよね」
「そう?」
「席替えの時だってズルしたじゃない」
「ひぃなが席替えを悲しんで泣いてたからね」
「泣いてないもん!」
やっとひぃなの肩の力が抜けたようだ。
「数学の80点ってもういいよね?」とひぃなが上目遣いで聞いてきた。
「いいよ」と答えるとホッとした顔になる。
「ひどい罰ゲームしてもらうだけだから、全然いいよ」と笑うと、「もー、なにそれ!」とひぃなは頬を膨らませた。
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