第314話 令和2年3月15日(日)「わたしの空手」神瀬結
「ハッ!」
気合とともに身体をぶつける。
相手は山のように巨大だが攻撃のあとなのでわずかにバランスを崩している。
蹴りをフェイントに入れ、空いた胸元に突きを繰り出した。
普通ならそれで決まりだが、相手は尋常ならざる身体能力の持ち主だ。
彼女は上体を反らしながら右足を大きく旋回させる。
それを予測していたわたしは更に踏み込み、左手が相手の顔面を捉えた。
『クソッ! また負けた!』と罵ったあと、キャシーさんはニッコリとわたしに笑い掛けた。
『ユイ、強いな』
『一度は負けましたが、二度は負けませんよ』とわたしは微笑んだ。
1月のことだ。
よく出稽古に来るキャシーさん相手に不覚を取ったのは。
小学校に入学前から空手を始めたこのわたしが、空手歴半年足らずのキャシーさんに負けたのだから相当に落ち込んだ。
言い訳はできる。
わたしは形の選手であって組み手の選手ではない。
どちらも空手の種目だが、専門化が進んでいるので両方強いという選手はそうそういない。
キャシーさんは格闘技の経験があり、180 cmを越える長身で手足も非常に長い。
身体能力の高さは常人とは一線を画すレベルで、どのスポーツでも大成しそうだ。
それでも負けたのはショックだった。
3月に行われる予定だった選抜大会が中止となり、目の前の目標が失われてしまった。
そこで形の練習と並行して組み手の練習も行っている。
日野さんを見習い、改めて基礎から学び直そうと思ったのだ。
キャシーさんは日野さんにインフルエンザを移した疑惑があり、現在日野さんのマンションに出入りすることを禁止されている。
そのため、うちの道場をよく訪問してくれる。
組み手の実力は似たようなものなので、格好の練習相手だ。
『ユイ、もう1本行くぞ!』
負けたことを日野さんに報告すると、「そこから学べることがあるんじゃない」と言われた。
わたしなりに分析したところ、体幹の弱さが原因だと判明した。
体幹はどの競技でも基本中の基本だが、形の場合他の人と比較するものではない。
一方、組み手だとそれが直接影響する。
キャシーさんの体幹の強さに勝てるとは思わないが、それでもしっかり鍛え上げる必要があると思った。
あとは経験でカバーしながら相手をよく見て戦うことで、なんとかそれ以降は負けずに済んでいる。
キャシーさんの二階から振り下ろすような蹴りはもはや男性よりも破壊力があると感じるほどだ。
高速で丸太を振り回していると例えたらいいかもしれない。
フルコンタクトではないので止まるはずだが、本当に止まるのかとたいていの人は恐怖に駆られてしまうだろう。
実際、止まらない事故は過去に何度か起きた。
そのため不安から身構えてしまいこちらの動きが遅れることがあった。
それも敗北の一因だっただろう。
形は直接相手と対戦する訳ではない。
でも、空手の本質は格闘技であり、戦いのはずだ。
この経験は必ず形の上達に繋がると信じている。
キャシーさんを相手にすると消耗が激しい。
集中力を一瞬でも切らすとその瞬間に負けてしまう相手だ。
トリッキーな動きも多いので、どんな状況にも対応できないといけない。
勝負には勝っても、わたしの方が先に息が上がってしまう。
『なんだ、もう終わりか?』とキャシーさんはピンピンしている。
『すみません、少し休憩します』
休息の大切さは日野さんからよく指摘されている。
わたしはグッと奥歯を噛み締めて道場の端に行き、息を整えた。
今日は日曜日ということもあって道場は人が多い。
みんな新型コロナウイルスなんてどこ吹く風といった顔で道場に通ってきている。
うちはスポーツジムも経営しているのでお母さんは消毒などに血眼になっているが、利用者の多くは自分は大丈夫だろうと思っているようだった。
まあ、わたしも同じなんだけど。
キャシーさんは無尽蔵のスタミナを持っているのか、男の人たちに稽古をつけてもらっている。
いまはなんとかわたしが勝っているが、勝てなくなるのはもう時間の問題だろう。
それを1分1秒でも遅らせるために足掻くつもりだ。
その先のことを考えたら……。
夏に全中が予定されている。
中学生の空手の全国大会だ。
昨年、わたしは準優勝だった。
優勝者は3年生だったから、今年は出場しない。
つまり、わたしが優勝候補本命と目されている。
しかし、日野さんが出場するかもしれない。
彼女は間もなく3年生になるので最初で最後の全中となる。
優勝すればNPOの代表として箔付けになるからと周りから勧められている。
出場すれば間違いなく優勝にいちばん近い存在になるだろう。
いまのわたしではまだ届かないと思う。
だけど、夏には……。
部活は休部中だが、こうして道場で毎日鍛え、わたしは日々成長している。
実際に手応えはある。
日野さんという目標を見定め、一歩一歩その距離を縮めているのだ。
集中力が戻ったところで、再びキャシーさんと対戦する。
いままでよりも踏み込みを鋭く。
判断を速く。
これまで積み上げてきた正しい技を振るう。
これがわたしの空手だ。
『リモートワークの授業をサボったら、進級できないかもって言われたのよ! あんなの、PCの前にジッと座っていられないよね』
着替えが終わり、コーラをごくごく飲みながらキャシーさんが言った。
『大丈夫なのですか?』とわたしが心配すると、『パパとママは頭を抱えていて、リサは激おこだった』とキャシーさんはあっけらかんと話す。
『日野さんの耳に入ったら……』
『神よ! それは絶対にダメ! ユイ、秘密にして!』と一転して慌てだした。
わたしは曖昧に頷く。
日野さんのことだから……。
その時、キャシーさんのスマホが鳴った。
『……カレンだ。出た方が良いと思うか?』と聞かれるが、『先に謝った方が良いと思いますよ』とわたしは答えた。
道場では陽気で、何も怖いものがないような彼女が、いまは小さくなって怯えている。
その落差に思わず脱力してしまった。
††††† 登場人物紹介 †††††
キャシー・フランクリン・・・G8。昨年7月に来日した黒人の少女。アメリカでレスリングの経験がある。インターナショナルスクールに通っている。
リサ・フランクリン・・・高校2年生。キャシーの姉。日本の高校に通っている。妹と違い頭脳明晰だが運動はほどほど。
日野可恋・・・中学2年生。彼女が通う道場にキャシーがホームステイしたことから知り合い、面倒を見ることに。
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