第465話 令和2年8月13日(木)「刺激」神瀬舞

「体重を増やしましょう」


 先日、練習に参加した日野さんがそんな提案をした。

 彼女にトレーニングメニューの見直しをお願いしたのは私だが、そこまで踏み込んでくるとは思っていなかった。

 トップアスリートにとって体重管理は基本中の基本だ。


 コンディションの微妙な変化がパフォーマンスに直結する。

 もちろんそれを微調整する能力も選手の実力のうちだが、ある程度身体が完成したあとは体型を大きく変化させることはしないものだ。

 競技にもよるが、筋肉をただつければいいというものではない。

 最善のパフォーマンスのために最適の筋肉量が存在し、それを見極めることが一流の証でもある。


「リスクが大きすぎない?」


「まだ1年ありますよ」


 彼女は軽く言うが、わずか数キロでもベストの体重を増やせばその対応にはかなりの時間がかかる。

 そして、それを戻すのも容易ではない。

 一度喪われた感覚を再び身につけるのは新たに獲得するのと同じくらいの困難さがある。

 1年あってもギリギリと言えるだろう。


「シーズン中は試合優先で身体を絞ってしまいますから。やるとしたら今しかありません」


 オリンピックが延期されたように主だった国際大会が次々と延期になっている。

 その期間をどう生かすのかが課題だった。

 いまの実力を維持するだけでいいのか。

 1年延期が決まってから抱えていたもやもやした気持ちは消えず、新たな刺激を求めて打った手が日野さんの協力を仰ぐことだった。

 彼女は若くて常識に囚われない。

 それでいて最新のトレーニング理論に精通している。

 しかも、私と同じ空手の形の競技者でもある。


「分かった。やろう」


 彼女はどの筋肉をどれくらい発達させるのか、そのためにどのようなトレーニングを行うのかを生き生きと話し始めた。

 普段はクールな雰囲気を漂わせているが、こちらが彼女の本性だろう。


 もうひとつ彼女の提案で採り入れたことがある。

 夏休み中の結とキャシーの指導だ。

 後輩にアドバイスすることなどはこれまでにもあったが、今回は練習メニュー作りから始める本格的なものだった。

 そこから何らかの”気づき”を得ることが目的だ。

 今日も大学の道場を借りてふたりの練習を見ている。


『これでどうだ?』と演武を終えたキャシーが私の顔を見る。


 空手を始めて1年だという彼女への指導は、形というものを一から教えるところから始めた。

 身体能力は私を遥かに上回り、集中力も非常に高いものがある。

 私は女子としては背が高い方だが彼女の顔を見るにはかなり視線を上げなければならない。

 とても刺激的な逸材であることは間違いない。


『メリハリをもっとつけましょう。映画スターになった気分でもっと見せる意識を高めて』


 彼女の欠点は形についての理解不足であり、そこからくるやる気の欠如だった。

 組み手といった格闘技の対戦こそが彼女のやりたいことだから、うまく気持ちを乗せる必要があった。

 これまで指導したことがある相手は始めからやる気に満ちていたので、そこからというのは新鮮な体験ではある。


「わたしの方はどうでしょう?」


 キャシーの隣りで演武を行った結が尋ねてきた。

 稽古の場では姉と妹ではなく先生と生徒という関係なので敬語で話し掛けてくる。

 彼女は昨年の全中で準優勝した実績の持ち主だからキャシー相手のような基礎的な指導は必要ない。


 結の演武は私の目から見ればいくつも粗がある。

 それをひとつひとつ指摘することも指導法としては有効かもしれないが、私の選手としての経験ではそのやり方にはあまり意味を感じなかった。


「自分の課題と向き合いなさい。普段はやっているんでしょ?」


 結は姉の私から指導されることが嬉しくて必要以上に意見を求めてくる。

 彼女の気持ちは理解できるが、もう手取り足取り教えるようなレベルの選手ではない。

 結はほんの少し不満げに唇を尖らせてから「はい」と返事をした。


『休憩にしましょう』とふたりに言うと、結は緊張を解き、キャシーは動き足りないといった感じで身体を動かしている。


『元気ね』と結が声を掛け、『毎日強くなっているからな』とキャシーは答えた。


 キャシーはこの合宿に参加する条件として、大学の空手部部員を相手とした組み手の稽古を求めた。

 恐ろしい体力で、形の稽古と組み手の稽古を毎日続けている。

 自分でも手応えを感じているのだろう。

 楽しくてしょうがないという顔をしていた。


『組み手では、もうわたしじゃ歯が立たないですね』と結が言い、『私も無理ね』と私もキャシーの実力を認めた。


 組み手の選手であれば戦いようがあるだろうが、形を本職にしている私ではもう手に負えない。

 キャシーは形を身につけたことで組み手の技量が向上した。

 力任せの空手からしっかりと基本に忠実な動きができるようになったという印象だ。


『ワタシは最強だ! いまならカレンにもきっと勝てる』


 自信満々というよりも自分に信じ込ませるようにキャシーが叫んだ。

 私は日野さんの組み手の実力を把握していないが、いまのキャシーならその言葉は実現しそうだと思った。


『日野さんは負けません!』と結が反論する。


 結は1つ歳上の日野さんに憧れめいたものを持っている。

 姉の私と比較され思い悩んでいた自分が吹っ切れたのは日野さんのお蔭だと話していた。

 だから、感情的になって言い返したのだろうと思っていた。


『日野さんですよ? 勝とうと思ったらどんな方法を使ってでも勝つに決まっています!』


 結の言葉に私は吹き出した。

 しかし、キャシーは腕を組んで真剣に考え込んでしまった。

 一種の盤外戦のようなものだ。

 このふたりに、自分には敵わないという意識を植えつけているからこんな反応になる。

 組み手は相手との一対一の勝負だから、こうした駆け引きも重要だろう。


『カレンがどんなクソッタレな手を使ってきても勝てるだけの強さが必要だ! マイ、ワタシをもっと強くしろ!』


 こういう熱さは嫌いじゃない。

 せっかくやる気に満ちているのだ。


『形をもっと磨くのよ。そうすればどんな状況にも対応できるようになるのだから』


 キャシーに対しては競技としての形ではなく空手の基本としての形を徹底して教えよう。

 愛弟子が日野さんに組み手で勝てるように。

 そんな楽しみを持ちつつ、改めて基本を見つめ直そうと私は考えた。

 それが私自身の成長に繋がると信じて。




††††† 登場人物紹介 †††††


神瀬こうのせ舞・・・東京オリンピック日本代表に内定している空手・形の選手。金メダル候補。この春大学を卒業したが、職員として残り練習を続けている。


日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手だが大会出場がほとんどなく無名。トレーニングの研究者でもあり、時間対効果の最大化を追い求めている。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。1年ほど前に来日して空手を学んでいる。組み手の選手。190 cm近い身長の黒人少女。アメリカではレスリングの選手だった。


神瀬こうのせ結・・・中学2年生。舞の妹。姉と同じく空手・形の選手で昨年の全中で準優勝となった。両親も空手の関係者という空手一家。

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