第114話 令和元年8月28日(水)「デート」藤原みどり

 フフフフフーン♪

 思わず鼻歌が出てしまい、慌てて周囲を見回す。

 大丈夫、小声だったので誰にも気付かれていない。

 私はひとつ咳払いをして、浮かれ過ぎないように気を引き締める。


 でも、頬は緩みっぱなしだし、動きも軽やかだ。

 なぜなら今日はデート。

 学生時代はお付き合いした相手もいたが、社会人になってからは忙しさにかまけてご無沙汰だった。

 同期の中には教職1年目から交際し始めた人もいたので、忙しさはただの言い訳なのかもしれないが。


 夏休みの終わりに友だちの紹介で知り合い、付き合うことになった。

 相手は一般企業に勤めるサラリーマンだ。

 来年度から私は担任になることがほぼ確実なので、もっと忙しくなるその時までに男が欲しいという私の願望を友だちが叶えてくれた。

 ふたりきりで会うのは今日が初めてなので、自然と気合いが入る。

 学年主任の田村先生も仰っていた。

 教師も私生活が充実してこそ仕事を頑張れるというものだ、と。

 谷先生のように仕事そっちのけで男漁りをするのは問題だが、一社会人として健全なお付き合いをする分には文句を言われる筋合いはない。


 そこに日野さんと日々木さんがやって来た。

 そう言えば朝のホームルームの時に職員室に来るように言ってあった。

 私は絶対に気取られないようにと気を付けながら、用意してあった資料を日野さんに手渡す。


「藤原先生、良いことあったんですか?」


 日々木さんが天使の微笑みを私に向ける。

 その無垢な瞳に平然と嘘を言う訳にもいかず、「どうして?」と質問を返すことで誤魔化そうとした。


「とっても幸せそうですよ。それにお化粧もいつもよりしっかりされていますし」


 鋭い指摘に固まってしまう。

 さすが、女の子は中学生といえどこういうことには敏感だ。

 私が言い訳を探す間もなく、「デートですか?」と日野さんが単刀直入に訊いてきた。


「え、な、何を言ってるの……。教師をからかうものじゃありません」


 厳しく言ったつもりなのに、ふたりはまったく堪えていない。

 これだから今時の中学生は……。


「デート! 素敵です!」と日々木さんが目をキラキラと輝かせ、自分の胸の前で両手を合わせる。


 一方の日野さんは、「妙齢の未婚の女性がデートするくらい普通じゃないんですか。隠すようなことだと思いません」と淡々と話す。

 ごめんね、妙齢の未婚の女性なのに4、5年振りのデートで、と心の中で言葉を返す。

 しかも、生徒に舞い上がっているところを見抜かれるだなんて……と思うと落ち込んでしまいそうだ。


「でも、その服で行くんですか?」と日々木さんが心配そうな顔付きで言った。


 新調したてのスーツだから、問題ないはずだ。

 そりゃあデートの前に家でシャワーを浴びこざっぱりして、服装ももう少しどうにかできればいいかもしれない。

 しかし、仕事は山ほどあり、デートだからってそれを放り出す訳にはいかない。

 それでも、「おかしいかしら?」と聞いてしまう。


「何度もお会いしている方なら良いと思いますが、このままだとお仕事の延長っぽく見えてしまう気がします。少しデートらしい華やかさが欲しいですね。例えば、……スカーフなんてどうでしょう? ちょっと派手めのスカーフを使うと堅苦しさが消えると思います」


「スカーフ……」と日々木さんの提案をイメージしてみる。


 オンとオフを分けるという意味でもなかなか良いアイディアだと思った。

 せっかくのデートなのだし、少しのオシャレできらびやかな感じを演出したい。

 スカーフくらいならデート前にすぐ買えるだろう。

 さすが将来の夢にファッションデザイナーを挙げる子だ。


「ありがとう。考えてみるね」と感謝の言葉を伝える。


 更に日々木さんが「お化粧も……」と言いかけたところで、「そろそろ時間。ひぃな、行くよ」と日野さんが遮った。

 背中を向けたふたりに「このことは……」と私が口を開くと、即座に日野さんが振り向いて「言いませんよ。こんなことに興味はありませんし」と冷たく言い放った。

 私は冷水を浴びせられた気分だったが、言いふらされたりしないのなら問題ないと思うことにした。


 それにしても、「お化粧も」の続きが気になった。

 何か問題があるのだろうか。

 終わりのホームルームの後にでも聞けないかなあとぼんやり考えていると、「藤原先生、チャイムが鳴りましたよ!」と学年主任から叱責された。


「いけない、次の授業!」と慌てて準備をして、私は駆け出す。


 ゴミゴミとした職員室には誰が置いたのか分からない荷物が積まれていたり、本や資料が今にも崩れそうに机の上に放置してあったりする。

 それらを避けるのに気を取られて、何かに躓いた。

 私は悲鳴と共に前方に倒れていく。

 なんとか服を汚さないように、手にした教材を放り出して手をつこうとしたが、奮闘虚しくベッタリと床に倒れ込んだ。

 倒れる時に椅子の脚に頭も打ち付け、私はもう泣いてしまいたかった。


「大丈夫?」と職員室に残っていた先生方が駆け寄る。


 私はムクッと起き上がる。

 頭の打った部分を手で触れ、出血していないことは確認した。

 服は白く汚れ、ひどい状態だった。

 私は埃を払うこともせず、真っ直ぐ学年主任のところへ行き、「頭を打ちました。病院に行くので早退します。後のことはよろしくお願いします」と元気な声で言った。


 私の威勢の良さに驚いたのか、田村先生は「お大事に」と一言発しただけで、職員室を飛び出して行った私を見送るだけだった。




††††† 登場人物紹介 †††††


藤原みどり・・・2年1組副担任。ぬるま湯? 何のことですか。確かにお風呂はぬるま湯で長湯しますけど……。


日々木陽稲・・・2年1組。お風呂は長いが、お風呂の温度は熱めが好き。


日野可恋・・・2年1組。烏の行水。ひとりだとシャワーだけの時が多い。


田村恵子・・・2年の学年主任。藤原先生と同じ国語教師。

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