第88話 令和元年8月2日(金)「勉強会」日々木華菜
今日はわたしの家で英語の勉強会だ。
以前、友だちのゆえとLINEでやり取りをしている時にそういう話になり、実現に至った。
中学の時夏休みの終わり間際に宿題が終わっていなくて焦っての勉強会ならしたことがあるが、まだ8月始めの段階でやらなきゃと思うほど高校は大変ということだろう。
参加者はゆえの他に、朱美と久保さん。
ゆえは同中で、親友と言ってもいいくらいの間柄だ。
それに対し、朱美と久保さんはそれほど親しいという訳ではない。
ゆえが他に呼ぼうと挙げた名前の中で、それなりに成績が良く、あまり騒がしくない人としてチョイスした。
ゆえは野上月、「月」と書いてゆえと読む。
この中国語風の読み方はアニメのキャラクターから取られたそうだ。
彼女は友だちの中では大人っぽくて落ち着いた雰囲気がある。
騒ぐ時は騒ぐが、メリハリのあるところが他の子と違うと感じる。
ゆえは顔が広く、中学の頃から意外な知り合いが多かった。
コミュ力の高いところはちょっとヒナに似ている。
朱美は成績がクラスでトップを争うほど優秀だ。
真面目な優等生で、人前では控えめなタイプ。
これまであまり接点がなく、ふたりで話す機会はほとんどなかった。
ヒナやゆえを見習って、わたしも友だちの枠を広げたいと思って誘うことを決めた。
久保さんの名前が挙がったのは驚きだった。
長身長髪の美人でとても目立つが、クラスでは浮いた存在だ。
4月の頃は話し掛ける子がいたのだけど、お喋りは好きじゃないとことごとく断ったらしい。
いまは他の人と話す姿を見ることはなく、彼女の陰口を言う女子も少なからず存在する。
わたし自身は久保さんに興味があるというより、ゆえとどういう関係なのかが気になった。
「他の進学校に行った子にも聞いたけど、ここまで宿題が大変ってことはないみたい」
ゆえが嘆く。
うちの学校の夏休みの宿題だって、英語以外は中学の頃とそう変わらない感じだ。
英語だけが極端だった。
量の多さも呆れるほどだが、和訳、英訳、長文読解と手間のかかる課題ばかりだ。
しかも、1学期の復習だけでなく、2学期以降の予習も兼ねているなんてあり得ないでしょ。
友だちの「無理」「死ぬ」「夏休みがなくなる」「写させて」「Google翻訳でいけるかな?」といった声がLINEに上がっている。
最後のは教師の側も目を光らせているだろうしなあ……。
愚痴を言っても仕方がないので、勉強を始める。
辞書で調べた単語をメモして共有することで少しでも楽に解けるようにする。
しかし、文法が絡むとわたしの頭ではうまく理解できない。
わたしの英語の成績は他の科目同様ほぼ平均点だ。
「to不定詞と動名詞のところは中学でもやったよね」とか「そこは関係詞だから、訳す時は……」とか何度もゆえに教えてもらう。
他の三人はスラスラ書いているように見えるので、なんだかわたしひとりが足を引っ張っているように感じてしまう。
ゆえは英語に興味があってこの学校に進学したんだし、朱美はできて当然。
久保さんもこのふたりに負けないくらい易々と問題を解いている。
「ごめんね、わたしばかり」とわたしはゆえに謝った。
予想以上に周りのレベルが高く、ついて行けないと思った。
「気にすることないよ」とゆえが言い、朱美も頷いた。
そこにノックの音がした。
「どうぞ」と言うと、扉が開き、ヒナが顔を出した。
「こんにちは、妹の陽稲です。お茶とお菓子を持って来たので、休憩されてはいかがですか?」
ヒナに続いて、お盆を抱えた可恋ちゃんと、平凡なわたしの部屋には場違いに見える黒人のキャシーが入って来た。
狭い部屋に女ばかり七人はとても手狭だが、今日の目的のひとつなので仕方がない。
プリントやノートを一旦片付け、そこに可恋ちゃんがお茶とお菓子を並べてくれる。
「ありがとう」と口々に言うクラスメイトの中で、ゆえだけは「ヒナちゃん、久しぶりね。こちらは可恋ちゃんだよね」と親密度をアピールする。
ゆえは、ヒナが中学に入学し三年生の間で人気になっていく様子を見ていた。
当然ヒナとも顔見知りだ。
可恋ちゃんについては、これまでチャイナドレスなどの写真を見せていたので顔を知っている。
「日野可恋です。よろしく」と可恋ちゃんは短く挨拶すると、キャシーを前に出す。
座っているわたしたちには、立っているキャシーの背の高さに伴う威圧感があった。
わたしたちが立っていても、圧倒的に背の高いキャシー相手では変わらなかったかもしれないが。
『こんにちは、みんな。キャシー・フランクリンよ。会えて嬉しいわ。仲良くしてね』
かなりの早口で聞き取りづらかったものの、なんとかこうだろうなというイメージはつかめた。
わたしは立ち上がってキャシーに挨拶する。
『わたしは日々木華菜です。ヒナはわたしの妹です。料理が得意です。あとでご馳走するね。今日は来てくれてありがとう』
前もって考えていた言葉だけど、ドキドキしながら自己紹介をした。
ヒナが笑顔で頷いてくれたから、きっと伝わっただろう。
『カナの友だちの野上月です。ゆえは漢字で月を意味する字を使い、中国語で発音しています』
わたしに替わって立ち上がったゆえが挨拶した。
とても堂々としているように見える。
親しげに笑顔を見せるあたりに余裕が感じられた。
『矢野朱美です。初めまして』
続いて朱美が自己紹介した。
しかし、キャシーが何か言って、「もう少し何か話してくださいってキャシーが」と可恋ちゃんが通訳してくれる。
座りかけた朱美が再び立ち上がり、何か言おうとするが、「えーっと、あの……」と口籠もるだけだ。
たぶん、頭の中が真っ白になっているのだろう。
気持ちは分かる。
助け船を出すようにヒナが英語でキャシーと可恋ちゃんに話し、可恋ちゃんが先にそちらの方の自己紹介にしましょうかと言ってくれる。
赤面して座った朱美に替わり、久保さんが立ち上がる。
『久保初美です。私は小学生の頃に3年刊アメリカに住んでいた。だから、ヒアリングは少しできる』
初耳だったのでわたしも驚いた。
キャシーは久保さんに早口で話し掛ける。
喋れる相手を見つけて嬉しそうに。
しかし、久保さんは手のひらを前に出してキャシーの言葉を遮る。
『ごめん。私は英語をほとんど話せない。アメリカでは日本人学校に通っていたから』
久保さんの発音はひなと比べても特に上手いと感じない。
可恋ちゃんはペラペラだし、ヒナの発音は聞き取りやすいがそれでもゆえたちより英語っぽく感じる。
久保さんは肩を落とし、「帰国子女といっても、みんなが英語をペラペラと話せるわけじゃない。日本にも馴染めないし、英語も話せない中途半端なものよ。せめて学校の英語くらいはと思って頑張っているけど現実はこんなものだとよく分かったわ」と日本語で思いを語った。
「そんなことないです。凄いと思います。できないからって投げやりになるんじゃなくて、ちゃんと努力しているじゃないですか」
ヒナが久保さんの言葉にすぐに反応して言った。
久保さんは驚いてヒナを見つめる。
「そうだよ。クボっちは帰国子女だって意識しすぎ。英語でチート技能がなくったって、頭良いんだし、容姿も凄いんだし、もっと自信を持てばいいじゃない」
ゆえもヒナに続いて久保さんを励ました。
それにしても、クボっちって……。
「私もそう思います。久保さんはちゃんと話せていたじゃないですか。私なんか……」と朱美はそう言って落ち込んでしまった。
「慣れたら話せるようになりますよ」とヒナが慰める。
わたしは戸惑う久保さんを助けるように「帰国子女だったんだ。どこで暮らしてたの?」と少し話題を変えてあげる。
「えーっと、サンディエゴ」
「どんな街でしたか?」
久保さんの返答にヒナが食い付き、彼女の質問に答える形で久保さんが当時の思い出を語ってくれた。
その背後で可恋ちゃんがゆえから宿題のプリントを借り、それをキャシーに見せている。
「最近は思い出さないようにと思ってた。でも、こうして話すことができてとてもスッキリした。聞いてくれて、ありがとう」
久保さんがヒナやわたしたちに感謝の言葉を述べた。
学校だと久保さんは周りに壁を作り、常にピリピリした感じがあった。
今日だってさっきまではそれがあったと思う。
でも、いまはこんな表情ができるのかと思うくらい穏やかに見える。
これを引き出したヒナのコミュ力の凄さを久しぶりに見た。
「先程の自己紹介の続きしますか?」
良い話で和んでいた空気を引き裂いたのは可恋ちゃんだ。
朱美が慌てて立ち上がった。
緊張しているのがこちらにも伝わって来る。
ひとつ深呼吸をしてから、朱美が話し始めた。
『私は学校の先生になりたいです。そのためにもっと勉強しようと思います』
たどたどしいが、さっきよりも自信が感じられる英語だった。
キャシーは『教師だって?』と大げさに驚き、信じられないと嘆いている。
そんなに学校の先生に嫌な思い出があるのかな。
わたしたちがキャシーのオーバーリアクションを笑っていると、可恋ちゃんからプリントを返してもらったゆえが、「どうだった?」と尋ねた。
「キャシーには難しそうですね。意味はある程度理解できるでしょうが、それだけです。おバカな中学生に高校の国語の問題を解かせようとするようなものです」
「おバカは酷いんじゃない? 勉強が得意ではないと言わないと」と可恋ちゃんの言葉にヒナがツッコむが言っていることは同じだ。
「でも、良い問題だと思いました。私は動画中心で勉強しているので、こういった文法は疎かにしていますから。文法の参考書に一度目を通しておきたいですね」
「わたしも勉強した方がいい?」
可恋ちゃんの言葉にヒナが質問する。
「日本では語学は読解力を身に付けることが基本で、表現力はやや軽視されているように感じるの。このふたつはコミュニケーションの両輪で、それは表情やジェスチャーといった非言語も含むんだけど、実践の中から身に付けていくのがもっとも効率的だと思う。ひぃなは特にその能力が高いから、文法などは後からでも大丈夫じゃないかな」
可恋ちゃんにヒナが返答する前に、キャシーが割って入り英語でまくし立てた。
どうやらずっと日本語で会話していたことに怒っているようだ。
「お騒がせしました。長々とお時間を取らせてしまい申し訳ありません。お暇しますね。勉強頑張ってください」
可恋ちゃんは一礼すると、キャシーを引っ張って部屋を出て行く。
ヒナも「ごゆっくり勉強を続けてください。また遊びに来てくださいね」と後を追って出て行った。
残された面々はわたしを含めて毒気を抜かれたような顔をしている。
「……彼女は何者?」
ゆえが呟くようにわたしに訊いた。
「ヒナの同級生。容姿端麗、学業優秀、運動神経抜群。あと料理の腕もかなりのものね」
「完璧すぎるじゃない」
わたしの答えにゆえが呆れた顔で言った。
「実際はいろいろあるんだけどね。彼女は特別だから、わたしはもう歳下とは思ってないわ」
健康問題や片親といったことはプライバシーの問題なのでわたしは言葉を濁した。
彼女を特別だと思っているというのは正直な気持ちだ。
「妹さんも特別って感じだよね」と久保さんがわたしに言った。
「ヒナちゃんはね」とゆえが去年の中学での出来事を語り始めた。
ヒナが3年生のわたしに会いに来たことをきっかけに、なぜか3年生の間にファンクラブまでできたエピソードなどだ。
単に容姿が優れていただけでなく、3年生に話し掛けられてもあの調子で話すので魅了される生徒が続出した。
ゆえが語った内容は中学でよく知られたものやわたしが教えたものだけでなく、ゆえがどこかから聞いたわたしの知らない話も含まれていて興味深かった。
長い休憩時間だったが、うち解けた感じになって勉強を再開した。
お互い分からないことを気安く聞けるようになり、勉強を頑張るモチベーションも上がった気がした。
終わり際に久保さんが「これからは初美でいいから。私も名前で呼ぶし。……あと、クボっちはなしで」と言ってくれた。
わたしと朱美は喜んで彼女の提案を受け入れた。
ゆえは「クボっちをクボっちって呼べないなんて」と頭を抱えていたけど。
来週はゆえの家で勉強会をすることを決めて、クラスメイトの三人は帰って行った。
ヒナの部屋に行き、ヒナと可恋ちゃん、キャシーの三人に「今日はありがとう」と感謝する。
「わたしも楽しかったよ」とヒナが、「勉強になりました」と可恋ちゃんが言った。
今日の夕食には可恋ちゃんとキャシーを招待している。
わたしがいまから作るねと言うと、可恋ちゃんは手伝いを申し出てくれたが、キャシーの相手を頼む。
「英語の勉強も頑張らないとダメだね。キャシーの英語なんて全然分からないし」
「慣れだよ」とヒナが慰めてくれる。
「自分が英語をペラペラ喋ってる姿が想像できないのよね」
別に英語を話せなくても生きていけるだろうという軽い気持ちの発言だった。
「英語を話せたら楽しいよ」
ヒナは心の底からそう思って言っているように見える。
「ヒナが教えてくれますよ」と可恋ちゃんがニヤニヤしながら言った。
「教えてくれる?」とヒナに訊くと「任せて」と胸を張った。
これはこれで楽しいかもしれないとわたしは思った。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木華菜・・・高校1年生。夏休みの宿題は真面目にコツコツやろうと計画を立てるタイプ。でも、途中で挫折することが多かった。
野上月・・・高校1年生。夏休みの宿題は友だちと勉強会をして要領よく終わらせるタイプ。
矢野朱美・・・高校1年生。家が裕福ではない中で、幾人かの良い教師に恵まれ勉強を頑張ろうと決意した。夏休みの宿題は前半のうちに終わらせるタイプだけど、この英語はギリギリまでかかりそう。
久保初美・・・高校1年生。夏休みの宿題はお尻に火が付いてから頑張るタイプ。
日々木陽稲・・・中学2年生。華菜の妹。夏休みの宿題は計画通りに実行するタイプ。
日野可恋・・・中学2年生。夏休みの宿題は7月のうちに終わらせるタイプ。
キャシー・フランクリン・・・14歳。アメリカに夏休みの宿題はない!
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