第218話 令和元年12月10日(火)「安藤さん」日野可恋
「可恋はどう思うの?」とひぃなが口を尖らせる。
「どうもこうも、家庭の事情だからね」と私は肩をすくめた。
一昨日、安藤さんの妹の口から引っ越すかもしれないという話が出た。
ひぃなはそれを聞いて相当ショックを受けている。
ひぃなのお父さんの話では、安藤さんが暮らす長屋には何年か前から立ち退きの話があるという。
安藤さんや彼女の妹の進学のこと、共働きのご両親のお仕事のこと、地主や不動産業者との話し合いのことなど様々な事情が絡むだけに部外者が簡単に口を挟める問題だとは思えない。
こればかりは大人の事情に左右されてしまうのは致し方ないだろう。
ひぃな自身もそれをよく分かっているはずだ。
「周囲の状況が許せば、安藤さんを下宿させるなんて方法もあるだろうけど、それが良い解決策かどうかは分からないね」
私がそう言うと、ひぃなは腕を組んで考え込む。
これまで彼女が安藤さんの日常生活を手助けしてきたが、それがずっと続く訳ではない。
高校は別の学校へ進学するとほぼ確定しているし、そうなればたとえ近くに住んでいてもいまのような関係を維持するのは難しい。
「そもそもまだ決まった話じゃないしね」
娘ふたりにそういう可能性があると話した段階のようで、まだ何も決まってないらしい。
ひぃなは身体を前後に揺らしながら思案している。
その横で当の本人はプロテインバーをムシャムシャと食べていた。
「私としては引っ越しのことよりも高校の進学先について真剣に考えて欲しいところなのよ」
私が安藤さんに視線を送ると、ひぃなもつられるように横に座る少女を見た。
安藤さんの場合、少女というより巨大な山のような存在感があるのだけど。
安藤さんは長身の私より10 cmほど背が高く、私が無駄な筋肉をつけないせいでもあるが、身体の厚みは倍以上ある。
柔軟性もあり、どんなスポーツでもこなせる身体能力の持ち主だが、駆け引きなどをあまり必要としない競泳は彼女向きだと言えるだろう。
トップを目指そうと思えばどんな競技でも経済力が必要になる。
彼女の家庭は裕福とは言えず、それだけに実績を残して授業料免除などがある特待生となって高校に進学することがベストの選択だ。
そのタイムリミットが迫ってきているのに、記録が伸び悩んでいる。
周囲の焦りを他所に、本人はいたってのんびりしている。
練習は熱心なのだから、ほんの少しのきっかけをつかめば成績にも反映されると思うのだが、そこは本人の意識の問題ではないかと私は考えていた。
チャンスをつかみ取るためには、チャンスをつかみ取ろうという強い意志が必要だ。
漫然と日々を過ごしているだけではチャンスに気付かず、素通りされてしまうのではないか。
しかし、こういった話を安藤さんにしてもピンと来ないようだ。
これまではひたすら練習に打ち込んでいれば記録はついて来た。
大きな挫折はなく、困った時は周りが手を差し伸べてきたので、将来への危機感を抱けないのかもしれない。
「プレッシャーをかけることが正しいかどうか分からないけど、来春のジュニアの大会で最低ファイナリスト、できれば優勝を達成しないと今後競泳を続ける道が閉ざされるかもしれない」
今後世界を目指すなら順位よりタイムを重視すべきだが、いまは高校の推薦のために目に見える結果が欲しい。
私の言葉に厳しい表情になったのはひぃなで、安藤さんはひとつ頷いただけで終わりだった。
スイミングクラブのコーチを通してトップスイマーの練習の見学にいくつか行ってもらった。
ただ合同練習のようなものは実現していない。
東京オリンピックが間近に迫り代表争いは熾烈で、見ず知らずの若手のことなど構っていられないというのが実情だろう。
それに安藤さんは寡黙で、先輩に可愛がられるタイプではない。
個人種目でも人と人との繋がりはいろいろとプラスになる。
それを思えば和泉さんのような可愛げのあるタイプは有利だろう。
……私も可愛げなんて全くないけどね。
考えられる手は尽くしたつもりだ。
大会で安藤さんと競い合ったライバルたちとも連絡を取ってみた。
F-SASを通じて面識を得た運動力学やスポーツ心理学の先生にも相談した。
それでも解決の糸口が見つからない。
安藤さんのことはひぃなに「やるしかないよね?」と啖呵を切っただけに、簡単にギブアップする訳にはいかない。
自分の力が及ばないならどうするか。
他人の力を借りればいい。
他人の力を借りても乗り越えられない時はどうするか。
もっと多くの力を借りるしかない。
私が駆けずり回っても、彼女は些細なきっかけでこの壁を乗り越えるかもしれない。
でも、そんな可能性に賭けて手をこまねいているのは性に合わない。
せっかくF-SASを作ったんだ。
そのネットワークをフル活用しようと決心した。
「純ちゃんはどうしたい?」
思い悩んでいたひぃなが真剣な眼差しで安藤さんに問い掛けた。
質問の意味が分からない安藤さんは小首を傾げる。
「1年後はまだこうして3人で一緒にいられると思う。でも、2年後は……。2年後わたしと純ちゃんがどんな関係でいられるか……」
そこまで言って、ひぃなは安藤さんの身体を自分の方に向かせてその手を取った。
「いままでずっと一緒だったから、たとえ高校が別になってもいまのような関係が続くとわたしは漠然と思っていたの。だけど、きっとそうじゃない。まして、引っ越しなんてしたら……」
ひぃなの目尻から涙が零れる。
泣き声になりながらも、必死で言葉を紡いだ。
「完全にいまの関係のままでいるのは無理だと思う。でも、いまから頑張ればわたしたちの繋がりは切れないようにできると思うの。それをふたりで考えていこう?」
ひぃなの言葉に私の影響を強く感じる。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。
それだけ濃密な時間を過ごしてきたことだけは事実だ。
安藤さんはひぃなの思いの籠もった言葉を必死に理解しようと考えているが、抽象的すぎて理解が追いつかないようだった。
「たぶんね、ひぃなの横に立つには誇れるものが必要なんだ。安藤さんが競泳で挫折してしまうと、たとえ引っ越さなくてもいままでのようにいられなくなるんじゃないかな」
クラスメイトでもひぃなを遠巻きに眺めるだけで話し掛けるのを躊躇う子は少なくない。
松田さんや千草さんのように自分に自信がないと、ひぃなの隣りに立とうとさえ思わないのだろう。
安藤さんには幼なじみや護衛役という特別な役割があったが、私が奪ってしまった。
競泳を辞めてしまえばひぃなに引け目を感じるようになるかもしれない。
「要は、ひぃなと一緒にいるには競泳でトップを取れってことだね」
簡略化しすぎだが、これでようやく伝わったようだ。
「頑張る」と珍しく決意を口にした。
過去に何度も似たようなことを伝えたがこんな反応はなかった。
結局のところ、どれほど正論を並べたところで信頼している人の言葉でなければ伝わらないということだ。
「私はいなくても良かったね」と苦笑すると、すかさず「そんなことないよ」とひぃながフォローしてくれた。
「わたしひとりじゃどうしていいか分からなかったし……」とハンカチで目元を押さえながらひぃなが言葉を続けた。
原田さんや鳥居さんならひぃなの涙は凄いマジックアイテム扱いにしそうだなと思いながら、私は立ち上がって彼女の隣りに行き、その頭をポンポンと軽く叩く。
落ち着いたひぃなは「これで記録伸びるかな?」と私に聞くので、『どうなるか様子を見てみよう』と答えると、『なんで英語なのよ』とひぃなも英語で返して来た。
「これからは私も『純ちゃん』と呼んでいい?」と尋ねると、コクリと頷いた。
「改めてよろしくね、純ちゃん。私のことは可恋でいいから」と言うと、ひぃなが「ダメなの。純ちゃんはわたしのことも呼び掛けてくれないのよ」と口を尖らせる。
「じゃあ、ひぃなより先に可恋と呼ばれたらいい訳だね」と微笑むと、「もぉー」とひぃなは頬を膨らませた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。正論、暴力、利益誘導、人脈など人を動かす手立てを多彩に持つが、情に訴えかけるのは苦手。
日々木陽稲・・・中学2年生。将来の夢はファッションデザイナーでそのための勉強もしているけど、未来への意識は漠然としている。可恋のように綿密に未来を思い描く中学生はほとんどいないと思う。
安藤純・・・中学2年生。陽稲は表情や視線だけで彼女の意図を察してくれるので呼び掛ける必要がない。
和泉真樹・・・中学1年生。東京在住の競泳選手。純に憧れている。
原田朱雀、鳥居千種・・・中学1年生。陽稲を光の女神と崇め奉る後輩たち。
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