第690話 令和3年3月26日(金)「日常の終わり」日々木陽稲

 麗らかな春の陽差しが降り注ぐ。

 桜の並木を南風が吹き抜ける。

 まさに絶好の花見日和だ。


「やっぱり、人が多いね」


 大混雑とまでは言わないが、平日の昼間だと言うのにけっこうな人の数だ。

 宴会ができない代わりにみんなスマートフォンやカメラを手に持っている。


「ここからでも良いんじゃない?」と公園の入口で顔をしかめて可恋が言った。


「そうだね」とわたしは残念さを顔に出さずに答える。


 感染症うんぬん以前に可恋は人混みがあまり好きではない。

 電車が苦手な理由のひとつもそこにあるのだろう。

 潔癖症の傾向もあるので、自然を楽しむという性格ではない。

 桜の観賞もマンションから眺めるだけで十分と言うほどだ。


「もっと近くで見たい?」


 図星を指され、わたしは正直に「うん」と頷く。

 せっかく来たのだし、もっと間近で見たい。

 木々は淡いピンクの花が咲き誇り、ドキドキするほど美しかった。


 可恋は仕方ないなという表情をして、わたしの手を取った。

 人混みに向かってゆっくりと歩き出す。

 わたしはその手の温もりを感じながら遅れないようについて歩く。


 可恋は最近お気に入りの白いセーターにスキニーのジーンズというカジュアルな服装だ。

 身長があって大人びているので大学生くらいに見える。

 わたしは桜をイメージしたワンピースに白のニットのカーディガンという出で立ちだ。

 モスグリーンの帽子で少し大人っぽさを出してはいるが、どう見ても中学生――小学生とは口が裂けても言わない――といったところだ。


 わたしは可恋の隣りに並ぶと、繋いだ手を振り解き可恋の左腕に自分の右腕を絡ませた。

 これで近所のお姉さんに連れられた子ども感は薄れただろう。

 可恋が苦笑を浮かべてわたしを見下ろす。

 わたしも可恋を見上げてニッコリ微笑んだ。


 桜をたっぷり堪能したあと、わたしたちは公園を離れた。

 少し雲が出て来た。

 それでも十分に暖かい。


「ひぃなは迎えに行かなくて良かったの?」


 今日はお母さんが3ヶ月に及ぶ入院生活を終えて帰宅する。

 お父さんとお姉ちゃんが車で迎えに行っている。


「みんなで押しかけると、お母さんが疲れちゃうかもしれないから」


 退院とはいえお母さんの体調はまだ万全からはほど遠いと聞いている。

 わたしが行くと帰りの車の中でついつい喋り過ぎてしまうかもしれない。

 それに――。


 お姉ちゃんはお母さんが倒れた時に外出していたことを悔やんでいる。

 倒れるなんて分からないのだから仕方がないことだけど、棘が胸の中に刺さったままのような顔を時折見せる。

 入院中はお見舞いが禁止され、直接会って話すことができなかった。

 わたしが行けば、お姉ちゃんは気を使って自分のことを話さないだろう。


「そっか」という可恋の声にはわたしが話さなかった胸の内まで分かっているような響きがあった。


「可恋はしばらく独りになるけど平気?」


 お母さんが帰宅することで数日間わたしは自宅で生活をする。

 明後日はわたしの誕生日で、お母さんの退院祝いも兼ねたささやかな祝宴を行うが、そこに北関東から”じぃじ”がやって来る。

 我が家には宿泊せず近隣のホテルに泊まるそうだが、”じぃじ”が帰るまでわたしは自宅にいることになるだろう。


「ひぃなと会えなくなる訳じゃないしね」と可恋は笑った。


 誕生日にはお祝いに来てくれるし、”じぃじ”の相手もしてくれる予定だ。

 顔を合わせないのは明日だけだと思う。

 一緒に暮らす前ならよくあることだった。

 しかし、1年間一緒に暮らしたことで、たった何日か離れるだけで身を引き裂かれるような痛みを感じるようになった。


 自宅が近づくにつれ、わたしの歩みが遅くなる。

 わたしは組んでいた腕を解き、可恋の前に立った。


「わたしもね、陽子先生の言葉を考えてみたの」


 昨日可恋が母親である陽子先生から受けた忠告の言葉を教えてくれた。

 わたしは可恋からたくさんのものを与えられている。

 可恋もわたしから多くのものを受け取っていると言ってくれる。

 そのどちらが大きいかを計ることはできない。

 自分がもらってばかりだと感じるのは心理的なものに過ぎないのだろう。

 ただ……。


「可恋が臨玲に来てくれたことは、いまのわたしでは到底お返しができないくらい大きな贈り物だと思う。この借りは絶対に返すからそれまでわたしの成長を待っていて欲しいの」


 わたしの言葉を聞いた可恋は真剣な面持ちになった。

 わずかに目を細めると「そうだね」と頷いた。


「ひぃながそれを負担に感じるのは仕方がないことかもしれないね。私に十分なメリットがあったと3年間で証明する必要がありそうだ」


 そして不敵に笑う。

 マスクをしていなければ口角が上がって魔王のような笑みだと感じたことだろう。


「あと、ひぃなにはしっかり成長してもらうよ」


 背筋がゾクリとする。

 可恋は基本的に自分に厳しいが他人にも厳しい。

 わたしを学級委員にして成長を促したことは記憶に新しい。


「ちょうどお祖父様もいらっしゃるのだし、経営のノウハウを聞いて勉強しよう。そして、高校在学中に起業して年商1億を目指そうか。このくらいなら簡単だよね」


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 いきなりの展開にまったくついて行けない。

 どうしてこうなった?


「ファッションデザイナーになるんでしょ? 自分でブランドを立ち上げて、それを売り出す。明確な目標があるのだから、あとはいつスタートするかだけだよね?」


「でも、もっといろいろ学んでから……」


「全部マスターしようと思えば何年も、何十年も掛かるんじゃない? 走りながら学ぶことを続けていかないと」


 可恋は中学生にしてNPO法人の代表を務め、大人相手でもまったく物怖じせずに仕事をしている。

 それを横で見ながら、わたしはまだまだ先のことだとのんびり構えていた。

 高校生になるタイミングで突然可恋と同じようなことを要求されるとは思ってもみなかった。


「可恋は助けてくれるの?」と救いを求めたが、「私は忙しいから」と可恋はにべもない。


 可恋の横に立つことを目標にしてきたから彼女に頼らずに自分の足で立とうとするのは当然のことだ。

 だが、そう思っていても簡単に覚悟ができるものではない。

 わたしは苦しげに「考えさせて」と答えた。


「そうだね。返事は誕生日の時に」と可恋は期限を区切る。


 再び家に向かって歩き始める。

 黙ったまま手も繋がずに。

 別れ際に可恋が優しい声で殺し文句を囁いた。


「一歩踏み出す時が来たんだ。ひぃなならできるよ」




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・4月から高校生となる。しかし身長が低く、いまだに小学生と間違われることがある。妖精や天使と称されるほどの美少女だが、最近はマスクにより街中で注目を浴びることは激減した。


日野可恋・・・4月初旬に16歳となる。陽稲を守るために彼女と同じ臨玲高校に進学することを決めた。中学時代に魔王の異名を授かったが高校でも改革のために君臨する予定。

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